病んだ言叶 癒やす言叶 生きる言叶
本书に収めた文章はいずれも言叶を扱っている。言叶と出会うこと、勉强すること、読んだり书いたりすること、教えること。言叶とのかかわりはさまざまだ。
では、そこでなぜ、「病」がからむのか。本书のタイトルからは<病&谤补谤谤;癒やし&谤补谤谤;再生>というストーリーが想像されるかもしれない。うまく机能しない言叶が、癒やされ回復し、生き生きとする。一种の再生谭がそこには読み取れるだろう。
もちろん、そうした含みはある。しかし、私が本当に示したいのは、病から生という并びに必ずしも一方向の矢印がないということである。「病」や「癒やし」や「生」はゆるやかに等号で结ばれてもいい。病むことも、癒やすことも、そして生きることも、いずれも言叶の贵重なあり方だ。どれを切り离しても全体性が损なわれる。これらをすべて视野におさめることでこそ、言叶の働き方が理解できる。
昔から人は暴力?武力に頼って他者に言うことを闻かせようとしてきた。その后、人类は少しだけ贤くなり、力に诉えるかわりに、言叶を上手に伝えるための方法や、そのための装置を开発した。そんな中でとりわけ重要だったのは、「相手の言叶を勉强する」という方法を発见したことだった。「相手の言叶」とは外国语であったり、新しい探求の方法であったり、敌対する人物の论法だったりする。あるいは、非常に独特な感性や感情だったりする。そこには见知らぬ文法が埋め込まれている。
「相手の言叶」を完全に理解するのは无理だ。一生かかってもそんな「技能」は身につかない。しかし、少しだけ贤くなった人类は「相手の言叶を勉强する」过程で学んだのである、言叶が伝わらないのはあたりまえだ、ということを。
言叶はつねにずれる。误解される。伝わらないのがふつう。相手の言叶は、永远に相手の言叶なのであり、自分の言叶と完全に重なることはない。
これは物と言叶の関係でも同じだ。科学の発达で、私たちは世界のすべてを言叶化し、説明してしまえるような気分になった。しかし、新型コロナウィルスの到来でもはっきりしたように、それは幻想だ。物とすっかり一対一で対応して、すべてをきれいに説明できる言叶などない。物どころか、人间の心だって不可解なことだらけである。言叶にできることはたかがしれている。
言叶を使うとは、まさにそういう场で格闘するということなのである。自分の言叶がそのまま相手に届くという期待は捨てた方がいい。言叶ですべてを解き明かすのも无理だ。意思疎通にまったく无駄のない究极のウルトラ?コミュニケーション法などもない。误解されたり、ずれたり、とらえそこねたりする言叶を、何とかして届ける。あるいは闻き取る。ぜんぶではなくても、8割、いや半分でもいい。
私たちはつい言叶に「强さ」を求めがちだ。「ぜんぶ伝えたい」という気持ちは、このように言叶を强力な武器のように使おうとする気分とつながっている。强く、効果的に、説得力をもって语り、相手にうんと言わせたい。语ることによって相手を支配したい。そういう言叶の使い手が伟いと思っている。それを、すごい、と赏賛する。
しかし、言叶は本来的に弱いものでもある。だから伝わらない。そこをやっと何とか乗り越える、というふうに考えるべきだろう。言叶が故障したり、病んだりするのはあたりまえなのである。
とはいえ、贤い人类は知っている。言叶には、弱さゆえの力がある。その细身と、やわらかさを生かして、薄暗い心の隙间や、物と物の隙间に入りこみ、とんでもない宝物を発见することができる。かと思うと、「まさかそんなふうに言うとは!」と奇跡的な形で世界をつかまえたりする。
本書におさめた31個 (要確認) の文章はいずれも言葉のそうした側面について語ったものばかりである。弱く、不安定で、しばしば失敗し、ずれることの多い言葉の背後には、同じく弱く、不安定な人間の本姓がある。興味深いのは、弱さを抱えた人ほど、しぶとく周到で魅力的な表現者になるということである。近代英文学の世界では、心や身体の失調が作品内で語られることが非常に多かった。18世紀の英文学ではメランコリーが流行病になったと言われるほどだ。日本文学でも多くの文章に何らかの ”失調“ が反映されてきた。表現者には病の香りが付きまとうのである。
言叶は毒にも薬にもなる。病を抱えた言叶はそれゆえに癒やしをもたらすこともあるだろうが、さらに病を広げてしまうこともある。取り扱い注意なのは间违いない。しかし、私たちが言叶を使って生きていかなければならない以上、言叶にさらされ、その危険や魅力と出会いながらやっていくことは回避不能の必然なのである。言叶や病がまるでないもののように、素知らぬふりを决め込むことなどできない。ちょうど人间などいないかのように振る舞うことができないのと同じように。これは自分が数字だけの世界に住んでいると信じる人にも适用されることだ。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 教授 阿部 公彦 / 2022)
本の目次
第1部 言叶を甘く见てはいけない
言叶は技能なのか
小説と「礼仪作法」
しようと思ったことができない病
発语の境界线
「论理的な文章」って何だろう?
入试政策と「言叶の贫しさ」
第2部 英语入试大混乱の后先
英语ができない楽しみ
英语はしゃべれなくていい?&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;英语教育の”常识“を考え直す
「英语教育」という幻想
「ぺらぺら信仰」の未来
「すばらしい英语学习」の落とし穴
第3部 「病」と「死」を生かす言叶
森鸥外と事务能力&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;『渋江抽斎』の物と言叶
漱石の食事法&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;胃病の伦理を生きるということ
「如是我闻」の妙な二人称をめぐって&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;太宰治の「心づくし」
西脇顺叁郎の英文学度&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;抒情诗と「がっかりの构造」をめぐって
第4部 言叶を伝えるために汗をかく
ワーズワスを教えたい
由良先生とコールリッジ颜のこと
记忆の捏造をめぐって
突然の人
少しばかり遅れた出会い&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;私のマーク?トウェイン体験
小説はものになれるか?&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;ジェイムズ?ジョイス『ユリシーズ』を読む
第5部 书くことへの「こだわり」は病なのか、救いなのか
百合子さんのお腹の具合
境目に居つづけること&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;批评と连诗と大冈信
莲实重彦を十分に欲するということ&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;『「ボヴァリー夫人」论』の话者らしさをめぐって
作家と胃弱&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;佐藤正午のある视点
大丈夫だ、オレ&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;佐伯一麦の呼吸
小川洋子の不安
元纯文学作家の职业意识&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;岛本理生の「こだわり」
第6部 どうしてもうまく语れない作家たち
大江健三郎と英詩——日本语の未開領域をめぐって
ボブ?ディランの拒絶力
ナマ?イシグロの「ナマさ」は? ——英語原文をちら見する
カズオ?イシグロの长电话&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;『わたしを离さないで』と”ケア“の语り
あとがき
関连情报
篠原諄也「病んだ言叶 癒やす言叶 生きる言叶」阿部公彦さんインタビュー 言葉の「弱さ」、今こそ大事なとき (好書好日 2021年12月27日)
书评:
週間読書日記:佐川光晴 評 (日刊ゲンダイDIGITAL 2022年5月24日)
なぜ英語を勉強するの?言葉とのつきあい方を振り返る【ブックレビュー】 (ENGLISH ONLINE PEOPLE 2022年4月7日)
須永紀子 評「誌のことばを生きる 詩書月評」 (『現代詩手帖』3月号 2022年2月28日)
大井浩一 評「論の周辺:国語教育改革と「言葉の機微」」 (『毎日新聞』 2022年2月17日)
アエラ読書部: 苅部直 評「苅部直の読まずにはいられない いつのまにか言葉を超えた領域へ」 (『AERA』 2022年2月14日号)
短评 (『产経新闻』 2022年2月6日朝刊)
短评 (『东京新闻』朝刊 2022年1月22日)
江南亜美子 評「病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉」書評 「存在の匂い」が滲む弱い日本语 (『朝日新聞』朝刊 2022年1月15日)
大竹昭子 評「伝わらないのはあたりまえ!? 身体を通して言葉の奥行きを探る」 (『週刊新潮』 2021年12月23日)