目覚めたまま见る梦 20世纪フランス文学序説
梦を见た、と人はよく口にする。実际、梦は多くの场合、目覚めた后に、过去形であらわれる现象である。これを覚醒したまま、目の当たりにすることは可能だろうか。目覚めたまま梦を见ることはできるのだろうか。
このような疑問を、二十世紀フランスのさまざまな作家たちが追究している。夢に対する関心そのものは、どの時代の文化にも見出すことができるが、この時代、フロイト『夢解釈』(1900) の影響もあり、それ以前になかった夢へのアプローチが現れはじめた。フランスでは、眠っている間に見ていた夢ではなく、覚醒した意識のさなかに夢見ることは可能かという疑問がとりわけ問題となっている。何かのきっかけで、見慣れた日常生活の事物が、眠りにひたされたような独特の光沢を帯びはじめる──そんな夢と覚醒が共存する瞬間がさかんに描かれたのだ。半覚半醒のまどろみを繰り返し描いたプルースト、夢と現実の対立を解消しようとしたシュルレアリストなどを思い浮かべただけで、夢への関心に、覚醒した意識が深く関わっていることが理解できるだろう。
どうしてフランスの作家たちは、フロイトのように、梦を无意识との関係で理解するのではなく、覚醒した意识との関係で梦を捉えようとしたのだろうか。その背景を考えてゆくと、ベンヤミンが「経験の贫困」と呼んだ、物语ることが困难になった时代が见えてくる。この时代、一人の人间が人生の中で豊かな経験を积み、完成された人格となってゆく道筋は解体されてしまった。世代ごと、それどころか十年単位で経験のあり方が変わってしまう社会状况の中で、昔の経験はほとんど意味をもたなくなってしまった。だが、同时にこれは主観効果が隅々にまで浸透した时代でもある。どれほど卑小なものになったとしても、われわれは自己を通してしか世界を体験することができない。自分にとって本当に価値あることを决められるのはこの〈私〉だけだということは、〈私〉の地位が决定的に凋落したことと同じほど确実なことである。
梦が、不思议な力强さで、主题化されつづけたのはそのためではないだろうか。眠りと覚醒の境界は、个人を超える力への敷居であり、〈私〉のなかで起こることでありながら、〈私〉を圧倒する外の世界に开かれている。この敷居への认识を深めることができれば、目覚めている限り、平坦で、どこまでも変わらないようにみえる世界が変容する、そんな瞬间を捉えることができるのではないか。事物の外観を超えたはるかな世界の反响を目の当たりにするために、眠りと覚醒の敷居に立ち、注意力を凝らしたままま梦みることを目指した作家たち──そんな文学の世界を、ヴァレリー、プルースト、ブルトン、サルトル、ロラン?バルトのテクストを通して探索したのが本书である。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 教授 塚本 昌則 / 2019)
本の目次
モンテーニュの落馬体験/ジャン?ジャック=ルソーの転倒体験 / 物語的同一性の否定?物語の回復
第1章 ヴァレリーにおける中断の诗学
I 夢の存在と不在──ヴァレリー <夢の幾何学> をめぐって
滨滨 「ロンドン桥」──存在と不在の交错
第2章 プルーストにおけるイメージの诗学
滨 「陈列用の偽物の自我」
滨滨 蛹としての自我
滨滨滨 イメージ──再创造された现実
滨痴 隠喩の状态
第3章 ブルトンにおける期待の诗学
滨 超现実における眠りと覚醒
滨滨 「取り乱した目撃者」
滨滨滨 超现実と根源
滨痴 期待の诗学──イメージ形成の场としての眠りと覚醒の敷居
第4章 サルトルにおける崩壊の诗学
I 否定の対象 / 到達不可能な対象
滨滨 否定と総合──イメージのうちにある形成力
滨滨滨 愚かさ、あるいは自らをイメージに変えること
滨痴 マロニエの树の根、そして眠りと覚醒
第5章 ロラン?バルトの <中性> の詩学
滨 白い目覚め」
滨滨 &濒迟;中性&驳迟;
滨滨滨 「陶酔の记述」──「过剰に働く自然なもの」
IV 「雰囲気」と目覚めたまま见る梦
跋
註
関连情报
山田広昭 評 (『ヴァレリー研究第8号』p.40-44 2019年11月)
三ツ堀広一郎 評 「目を見開いたまま異界と日常の敷居に立ち尽くす」 (『図書新聞』 2019年6月22日)
鈴木雅生 評 「夢の持つ不思議な力に魅せられて──「目覚めたまま见る梦」こそ詩の生まれる場所」 (『週刊読書人』 2019年5月31日)
堀江敏幸 評 「創作との関係でとらえる夢の力」(毎日新聞朝刊 2019年3月31日)
刊行记念イベント:
『目覚めたまま见る梦』刊行記念 塚本昌則氏×野崎歓氏トークイベント 「夢の交歓」 (神保町ブックセンター 2019年5月23日)