大日本史料 第七编之叁十四
『大日本史料』は朝廷、幕府、大名らの発した公文书、贵族や武士たちの作成した财产関係の文书、寺社の宗教行事や财产関係の文书、さまざまな阶层の人々の书いた日记、その他あらゆる文字史料を収集し、一つの「事件」ごとにまとめ、それを年月日顺に配列した史料集である。ここにいう「事件」には政治的な大事件だけでなく、日常の朝廷の仪式や神社の祭礼、天皇や将军の外出など、大小さまざまなできごとも含まれる。现在、平安中期から江戸初期までの时代を12の编に分けて、それぞれの编で刊行が进行中である。
『大日本史料第七編』は南北朝合一 (1392年) から応仁の乱勃発 (1467年) までを担当する。本冊では応永26年3月から7月までを収めた。本冊で最大の事件は6月20日に起こった応永の外寇である。これは倭寇の被害に悩まされていた朝鮮が対馬を襲撃した事件である。事件そのものに関する日本側の史料は少なく、『朝鮮王朝実録』、『明実録』、戦いに参加した朝鮮軍人の伝記など、おもに朝鮮?中国史料を用いた。本冊に収録した範囲での経過の概略は次のとおりである。
5月前半、倭寇の大船団が朝鲜忠清道、黄海道を袭い、さらに中国の辽东半岛に向かう动きを示した。これを见た朝鲜政府は対马に兵力となる男子は不在と考え、対马を攻撃して女性や子供を捕虏として、辽东より帰还する倭寇船団を迎撃することを计画した。朝鲜政府は九州探题や対马岛主の宗氏には、日本本土や宗氏を攻撃する意志のないことを伝える一方、朝鲜国内の日本人は拘束している。
6月半ば、倭寇は辽东の望海堝を袭い、明军に大败するが、これを知らない朝鲜政府は、20日、计画どおり対马を攻撃する。ところが対马に残る兵力は案外に多く、数日间の戦いで朝鲜军は苦戦を强いられた。台风袭来の恐れもあり、7月3日に引き扬げた。翌日、辽东より帰る途中の倭寇が再び忠清道を袭ったため、朝鲜政府内では再出撃が议论されるが、12日、倭寇は明军に大败しての败走中であることが判明し、再出撃は中止された。17日、朝鲜は、宗氏に対し、岛民を挙げて朝鲜に来降することを促すとともに、再度の対马攻撃の是非を廷臣に諮った。賛否両论が出されたが、しばらくは民力を休め、再攻撃は翌年春に延期することとなった。
このように朝鲜の动きは辽东を袭った倭寇の动きに対応したものである。また5月初旬に倭寇が忠清道を袭撃したとの情报は直ちに朝鲜から明に伝えられ、これが望海堝での明军の防备成功につながっている。また朝鲜军人の伝记から、対马が壱岐や上松浦に援けを求めたことがわかる。これらは今回明らかになったことである。
この事件に対して日本国内では、5月23日には京都で「大唐国?南蛮?高丽」が日本に攻めてくるという风闻が流れている。6月半ばには出云大社ほか多くの神社から怪异が报告され、幕府は诸寺に祈祷を命じている。また将军足利义持は70年も中断していた祈念穀奉币の再兴を后小松上皇に奏请し、実施が决定している。正确な情报がないまま、目に见えない敌におびえる人々の様子がうかがえよう。
(紹介文執筆者: 史料编纂所 教授 榎原 雅治 / 2019)