大日本史料 第十二编之六十叁
『大日本史料』は、歴史上の重要事件を「綱文 (こうぶん)」と称する事件の概要をあらわす文章で示し、それに関連する史料を列挙した史料集である。典拠史料を収載した巨大な年表をイメージしてもらうとよいだろう。現在、平安時代中期から江戸時代初期までを第一編~第十二編に分けて編纂が進行中である。第六編之一と第十二編之一が刊行された1901年から現在まで、120年以上に亘って410冊余りが刊行されている。
第十二編は、徳川家康が征夷大将軍に任官した慶長八年 (1603) 年二月十二日から三代将軍徳川家光が死去した慶安四年 (1651) 四月二十日までの江戸時代初期を範囲とする。現在元和九年 (1623) を編纂中であり、本冊では三月二十一日条から五月十六日条までを収録した。以下に主な事件について紹介する。
元和九年は六月から闰八月にかけて徳川秀忠?家光の将军父子が京都に滞在し、七月には家光が将军职を袭う。すでに年初には诸大名の间でも将军上洛の风闻があったが、二月に秀忠の甥でかつ婿に当たる越前北ノ庄城主松平忠直が幕府に対する不平分子として秀忠より隠居を命ぜられるという事件があり、内乱に発展する危惧もあったことからなかなか上洛日程は决まらなかった。忠直が豊后に配流されることが决まり、渐く四月十日になって翌月の后半に秀忠?家光が上洛することが诸大名に告げられた。それに合わせて五月十一日には上洛に供奉する者たちの守るべき规则も定められた。その他、今回の上洛に直接?间接に関连すると考えられる事件としては、四月七日には京都五山诸寺によって秀忠の诞生日の祈祷が行われ、四月二十二日からは将军职継承の前提として秀忠から家光へ家臣が顺次分与された。また四月二十八日には后阳成天皇の第五皇子大覚寺尊性が実兄の仁和寺覚深より灌顶を受けた。
本册に収録した期间には、着名な人物としては叁月二十一日に长门萩城主毛利秀就の家老である福原広俊、四月二十叁日に北部九州の戦国大名であった筑紫広门、五月十六日に初代本因坊算砂が死去した。福原広俊は毛利氏の安芸吉田时代からの年寄を勤めた家系で、関ケ原戦后は徳川政権とのパイプ役として家の存続に尽くした。家康の信頼も厚く大名への取り立ての申し出もあったが、それを断って毛利家中に留まったとされる。筑紫広门は大友氏や岛津氏といった有力大名に挟まれながらも豊臣秀吉に臣従することで大名として生き残ったが、関ケ原戦后に改易されて豊前小仓城主细川忠兴?同忠利の食客として余生を送った。本因坊算砂は日莲宗の僧侣で法名を日海と称したが、当代の囲碁の名手として有名で、现在まで続く本因坊の初代に数えられる。秀吉?家康の文化サロンに加わり、大名や公家たちとも広い交友関係があった。彼らの死去の事実を示す史料のみでなく、経歴や顕着な事绩、人となりを窥い知ることのできる史料も収録したので、戦国末から江戸时代初头の激动の时代を生き抜いた着名人の人生を史料で辿ってもらえれば幸いである。
(紹介文執筆者: 史料编纂所 准教授 及川 亘 / 2023)
本の目次
第十二编之六十叁目次
后水尾天皇
元和九年
叁月
二十一日 安艺広岛城主浅野长晟ノ江戸城天主台丁场ノ石塁崩ルヽニ依リ、
幕府、长晟ヲシテ之ヲ修理セシム、是日、秀忠、其事成就スルヲ
褒シ、长晟へ备前行光ノ刀ヲ与フ、
长门萩城主毛利秀就ノ重臣福原広俊卒ス、
毛利辉元ニ近仕シ、毛利家ノ年寄トナルコト等、
関ケ原戦后、加判役トナリ、江戸ニ於イテ闻次ノ役ヲ务ムルコト等、
広俊本人ノ身上ニ関スルコト、
竝ニ毛利秀就ノ行仪ノコトニ就キテ毛利辉元ニ具申スルコト等、
二十七日 江戸小石川伝通院廓山〈正/誉〉ニ紫衣ノ永宣旨ヲ赐フ、
筑后善导寺住持大通ニ紫衣ノ永宣旨ヲ赐フコト、
二十九日 萩原兼従ニ、日本书纪ノ侍読ヲ命ゼラル、
是 月 幕府、播磨明石城主小笠原忠真ニ帰国ノ暇ヲ与フ、
四月
二 日 美浓揖斐城主西尾嘉教、卒ス、嗣无キニ依リ、幕府、其封ヲ除ク、
四 日 甲子待、
五 日 南都水屋社神楽ニ於イテ、奈良奉行中坊秀政配下ノ者ト大和郡山
城主松平忠明家中ノ者、闘諍ス、
七 日 五山诸寺、秀忠ニ诞生疏ヲ进ム、是日、僧録ニ於イテ祈祷ヲ修ス、
八 日 山城知恩院法云〈城/誉〉、诸檀林及ビ惣门中ノ掟ヲ定ム、
十 日 御本甲子秘记ヲ土御门泰重ニ贷与シ、革命?革令ノコトヲ勘申セシ
メラル、
秀忠、上洛ノ日程ヲ、诸大名ニ告グ、
四月十日以前ノ秀忠上洛ノ风闻ノコト、
豊前小仓城主细川忠利、小仓城廻リ土居?石垣ノ修理及ビ城下苇原
ヲ埋立テヽ屋敷トスルコトヲ愿ヒ、コノ日许サル、
十六日 陆奥刈田岭喷火ス、
十八日 幕府、叁河吉田城主松平忠利ニ帰国ノ暇ヲ与フ、
二十二日 秀忠、酒井忠世?阿部正次?伊丹康胜?戸田康长等ヲシテ、家光
ニ附属セシム、
二十叁日 旧筑后山下城主筑紫広门、豊前小仓ニ卒ス、
二十四日 日吉祭、
二十六日 秀忠、江戸城西丸腰掛所ノ制规十条ヲ定メテ、従者ノ非礼ヲ戒メ、
又、大额?大抚付?下鬚及ビ太刀?大脇差?朱鞘等ヲ佩用スルヲ
禁ズ、
二十七日 舞々御覧アリ、
舞々与左卫门ノ受领ノコト、
二十八日 大覚寺尊性法亲王、灌顶ヲ受け给フ、
五月
二 日 京都二条室町、火灾アリ、
骏府城番松平康安、卒ス、子正朝、嗣グ、
十 日 秀忠、殿中诸番士ノ作法等ヲ戒飭ス、
秀忠、阿波徳岛城主蜂须贺千松〈忠/英〉ニ首服ヲ加ヘ、阿波守
ニ任ジ、偏讳ヲ与ヘテ、忠镇ト称セシム、寻デ、忠镇、従四位下
阿波守ニ任叙セラル、
十一日 秀忠、将ニ上洛セントスルニ依リ、供番ノ条规ヲ定ム、
十六日 初代本因坊算砂〈日/海〉、寂ス、
(目次终)
関连情报
書籍紹介 :
出版報告 (『東京大学史料编纂所報』第58号 pp. 55-58 2022年)