中世から近世へ 天下人と二人の将军 信长と足利义辉?义昭
戦国の混乱が続く日本では、乱世のなかに全国の统一を志した「天下人」が颯爽と现れ、时代を大きく动かしていくとされる。日本の首都である京都とその周辺を掌握した「天下人」は、地方各地の戦国大名を屈服させ、あるいは武力で讨伐をし、自身の势力圏を広げていく。この「天下人」となるのが、织田信长である。
この时期の政治史は、织田信长が京都に入る1568年から书き始められることが多い。しかし、信长という个性的な「天下人」を主役にしてしまうと、それ以前の室町幕府による政治の仕组みは古びた机能しないものとして后継に退いてしまい、ともすれば歴代の足利将军も、いずれも无力な日阴の存在とされがちである。ただ、最近は戦国时代の室町幕府政治史の研究が积み重ねられ、それぞれの将军の个性というものが见えてくるようになった。たとえば、室町幕府の最后の将军となる足利义昭は织田信长に拥立されたことで有名だが、その兄で、十叁代将军になった足利义辉とは、政治スタイルが相当に异なっていたことが分かってきたのである。そうした将军の视角から信长が登场する过程を捉えなおしたものが、本书である。
义辉は、京都とその周辺の掌握に手こずりながらも、じつは远方の大名との通交に復権の活路を见出していた。将军だけが持つ超越した地位を利用しながら大名たちの纷争に介入していき、巧みな通交で支援を引き出しつつ、それまでの室町幕府の政治拠点となっていた将军御所とは异なり、先进的な军事设备を备えた城郭を京都に筑いていたのである。中央である天下と、それを取り巻く地方とが有机的に関连しながら、义辉の政治は展开していたといえるだろう。
ところが义辉は暗杀されてしまい、弟の义昭は信长と手を结んで将军の座を射止めた。200年以上も続いてきた室町幕府の政治のなかでは、就任したばかりの将军は君主として慎重な行动を取らなければならず、人々もそれを求めてきたが、义昭はそこに十分な配虑が出来ていたとは言い难い。しかも兄义辉の政治スタイルを継承していたように见えながら、将军という役职の重さを认识せず、大名たちの纷争に介入する际にも自身の戦略を优先していった。义昭の政治には徐々に绽びが目立ちはじめ、その间隙をつくかのように信长は自身の基盘固めを进めることになる。ついに両者は敌対関係に転じ、本来は中立であるはずの将军自身が军事活动に身を投じるものの、结局は京都を追われてしまうのである。
このように、中央と地方の関连性から二人の将军の政治スタイルに目を向けると、そこには大きな断絶があった。その絶妙なタイミングで、信长が政治の表舞台に登场したことに気が付くのではないだろうか。
(紹介文執筆者: 史料编纂所 准教授 黒嶋 敏 / 2021)
本の目次
第1章 御所から城へ
第2章 足利义辉と远国
第3章 理想の幕府を求めて
第4章 城破れて天下布武
终章 天下人へ継承されるもの
おわりに
関连情报
参考文献として:NHK - 歴史秘話ヒストリア - 第404回放送「不滅なり!室町幕府足利ブラザーズの挑戦」 (NHKテレビ 2020年10月21日)