小説のしくみ 近代文学の「语り」と物语分析
「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」とは、森鴎外 (1862-1922) が「追儺(ついな)」(1909) という短編に記している言葉です。これに倣って言うなら「小説というものはどんな風に読んでもよいものだ」ということになるでしょう。
愉しむために小説を読むということなら、それでいい。
ところが、いざ小説を论じてみようとすると、何をどう论じてよいものやら、途方に暮れてしまうことがしばしばです。
诗や小説といった文学作品は研究の対象になります。げんに大学の教室で教えられ、论じられているものです。论じ方は実にさまざま。论じ方を工夫することこそ、文学作品を対象とする研究そのもの、文学研究のいとなみそのものであると言えるかもしれません。
本书では、小説とはどう论じるべきかについて、一つの见通しを示しました。まずは、小説を语られたものと捉えること。小説がどのように语られているかを、テクストに即して考える方法を示すこと。そのために、语られたものとしての小説作品を论じる语汇を见つけだすこと。
议论の対象を内容の面から考えるか、形式の面から考えるかという二分法に立つなら、本书は小説の语りを形式の面から考えようとする立场に立ちます。表题に掲げた「しくみ」には、そのような意味をこめたつもりです。
では小説の形式、小説のしくみを论じるとは具体的にどのようなことでしょうか。
小説を読んでいて、たとえば「人生はまぼろし」という言葉が目に入ったとします。人の一生は幻だと考えるのは、とくに目新しい思想ではありません。読者のなかにはさまざまな反応があることでしょう。そんなことはない! なんて陳腐な。まあそうだろう。たしかにそうだ、等々。
読者の側の多様な反応は「人生はまぼろし」ということばが伝えるメッセージそのもの (内容) に関わると同時に、「人生はまぼろし」ということばの語り方 (形式) にも関わります。それは作中人物がふと洩らしたひとりごとでしょうか。対話のなかで発せられたことばでしょうか。どのような人生を経験した、どのような人物のことばでしょうか。あるいはそれは、語り手が語り手自身の思いとして語ることばでしょうか。
小説のしくみを考えるとは、「人生はまぼろし」といったメッセージが、小説のなかで谁によって、どのような场で、どのような状况で、どのレベルで语られているのか、またどのように読者に伝えられるのか、といったことを考えることです。それは、メッセージの内容について思索するための、準备作业のようなものだと言ってもいいでしょう。
小説についての议论が広く人々に共有されるためには、この準备作业じたいが重要である。着者としては、そのようなメッセージを込めた本でもあります。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 菅原 克也 / 2017)
本の目次
第一章 テクストの相
1 叁つの相――物语内容、物语言説、物语行為
2 太宰治「浦岛さん」
3 物语内容とは何か
4 物语行為
5 语りに仕组まれる読みの方向
6 読みの方向と物语内容
第二章 语り手と语りの场
1 语り手という存在
2 语り手のさまざま――読者と向きあう语り手
3 语り手と物语世界
4 语りの阶位
5 枠物语――外枠の物语と埋め込まれた物语
6 物语を作る语り手――永井荷风『墨东奇谭』
7 闻き手と向き合う语り手
第叁章 语りの视点
1 心の中を语ること
2 焦点化――谁が知覚し、谁が语るのか
3 焦点化概念の変容
4 黒泽明『罗生门』と芥川龙之介「藪の中」の语り
5 芥川龙之介「偸盗」の语り
第四章 テクストの声
1 テクストから闻こえる声
2 森鴎外「山椒大夫」における话法の処理
第五章 语りと时间
1 小説の中の时间
2 顺序
3 持続
4 频度
终 章