平成28年度卒业式総长告辞
式辞?告辞集 平成28年度东京大学卒业式 総长告辞
本日ここに学士の学位を取得し、卒業式を迎えられた10学部、3,080名の卒业生の皆さんに、東京大学の教職員を代表して心からお祝いを申し上げます。また、この日にいたるまで長い年月、皆さんの成長を支えてこられたご家族の皆様方のご苦労に対し、敬意と感謝の意を表します。本学が送り出した卒业生は皆さんを含め合計279,902名となりました。
东京大学は东京开成学校と东京医学校を合併して创设されました。その源流である蕃书调所(ばんしょしらべしょ)は1857年、种痘所は1858年と、その设置は江戸时代にさかのぼります。东京大学の设立は1877(明治10年)年で、本年4月に140周年を迎えます。私はこの140年の歴史を、终戦を挟んで前后70年に分けて考えています。そのそれぞれのスタート时点において、进むべき方向ははっきりしていました。
前半の70年は明治期に入り、西洋诸国と伍して対等な国となるために、西洋の近代化の成果を一気にとりいれた国づくりが求められました。その仕组み作りと人材养成の中枢的役割を担うことが创设の目的でもあったからです。1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって、东京大学は帝国大学に改组され、様々な学部を备えた现在の総合大学としての原型が整いました。
后半の70年の始まりは、戦后の焼け野原から新たな民主国家を创り上げることでした。そしてその70年の间に、科学技术はめざましく発展し、経済社会の大きな発展とグローバル化をもたらしました。その中で日本は工业立国をなし遂げ、先进国の一角としての地位と平和で安定した社会を获得しました。しかし同时に、拡大した人类の活动は、环境の劣化や地域间格差など地球规模の课题を生みだし、近年、それが拡大し深刻さを増しています。
今年から、次の第3の70年が始まります。昨年2016年は中国の金融不安から始まり、各地におけるテロ、イギリスの国民投票による贰鲍离脱、アメリカ大统领选挙など、人类全体の协调と调和という理想に逆行する大きな动きが続いています。宗教的な対立や国际纷争の复雑化は加速するばかりで、これまで人类社会の発展を支えてきた、资本主义や民主主义などの基本的な仕组みが十分机能していないのではないかとすら感じられます。个々の人々が、自由で、意欲を持って活动し、それが结果として人类全体の豊かさにつながるような新しい仕组みを创りだすにはどうすれば良いのでしょうか。
ここで大切なことは、知の力を放弃するのではなく、その力を信じ、国境を越えて协力しあうことです。様々な立场の人々と未来のためのビジョンを共有し、その轮を広げるための行动を起こすことです。これは、ネット上で広がる反射的で衝动的な共感ではありません。「知性に支えられた真の共感」、それを作りだし、拡げていくことなのです。
東京大学を本日卒業する皆さんこそが、その担い手とならねばなりません。東京大学で学んだ知を最大限活用して、次の70年の人類社会のあるべき姿を描き、それに向けた道筋をつけるために何をすべきかを考え、実際に行動を興してください。「次の70年」は、卒业生の皆さんが社会に出て活躍し、齢を重ね、そして次の世代に社会を受け継ぐ大事な期間です。
さて、よりよい社会を作るための基本は人々の心と体の健康にあります。东京大学は、昨年(2016年)5月にスポーツ先端科学研究拠点を开设いたしました。この拠点は、本学が様々な分野において培ってきた最先端の学理をベースとして、健康寿命の延伸、障がい者の蚕翱尝、すなわち生活の质の改善、アスリートの竞技力の向上などの课题に分野横断的に取り组むことを目的としています。拠点にはすでに、15の部局の约50におよぶ研究室から、様々な分野の研究者が集っています。この活动は、2020年の东京オリンピック?パラリンピックを1つの通过点と捉えており、スポーツの振兴や研究を行う各种の団体とも连携し、互いに协力して研究を进めています。そしてその成果をもとに、すべての人々が生き生きと过ごすことができるよう、社会のシステムを提案することも目指しています。
东京大学とスポーツの関わり合いは、决して今に始まったことではありません。前回1964年の东京オリンピック?パラリンピックでも、东京大学は大きな贡献をしています。オリンピックから遡ること12年の1952年、安井诚一郎都知事は、関东大震灾や东京大空袭からの復兴をアピールしたいと思い、东京オリンピック?パラリンピックの诱致に名乗りを上げました。安井知事は第一高等学校から东京帝大法科に进まれ、学生时代はボートと柔道に明け暮れる日々を过ごされました。安井先生を引き継ぎ都知事となったのは、东龙太郎先生でした。东先生も第一高等学校から东京帝大医科に进まれ、高校?大学とボートで活跃され、高校时代のレースでは安井知事とも颜を合わせています。生理学と薬理学を専门とし、筋线维の収缩を研究テーマとして教授を务めています。助教授时代に「スポーツと健康の関係を解明し、スポーツによって生じる病気の予防法と治疗法を见つけよう」とスポーツ医事研究会の设立に発起人の一人として尽力されました。先生は、滨翱颁(国际オリンピック委员会)の委员でもあったためオリンピック?パラリンピック招致の成功を期待され1959年に都知事に就任されました。知事就任の1か月后にオリンピック招致が决まり、翌年、日本体育协会の中にスポーツ科学研究委员会が设置されました。この委员会では30の研究プロジェクトを设け、20の施设に研究者をトレーニングドクターとして配置し、さらに医师が选手の合宿を巡回するなどし、スポーツ科学研究と选手强化サポートの両面から活动が行われました。この活动には东京大学からも多数の研究者が参加しました。これによって日本におけるスポーツ及びスポーツ医学は大きく発展し现在の基础が作られたのです。53年前の东京オリンピックの実施に际しては、选手达のトレーニング拠点として検见川総合运动场、陆上竞技の练习会场として驹场キャンパスのグラウンドやラグビー场を东京大学が提供したことを、忆えているひとはもう少なくなったかもしれません。驹场キャンパスで名物の野球场のしだれ桜の木は、実はオリンピック后に东京都から赠呈されたものなのです。
さて、今なぜ、东京大学がスポーツ科学の研究を推进するのでしょうか?
私はこれには二つの意味があると考えています。
まず第一に、日本が抱える社会の高齢化の問題です。日本の高齢者、すなわち65歳以上の人口は昨年9月時点で25.9%です。2007(平成19)年に21%を超えて超高齢社会を迎えましたが、その後もこの比率は増加を続けています。健康であるまま生涯を終えることができればよいのですが、実際には一生の最後を、介護を受けながら生活している高齢者が多くいます。支援や介護を受けずに日常生活を送ることのできる期間を健康寿命と呼びますが、2010(平成22)年のデータでは、男性70.4歳、女性73.6歳です。これを平均寿命と比べると男性で約9年、女性で約14年も短いのです。つまり日本人は平均値でみても十年から十数年にわたり、不自由な身体をかかえ介助を受けながら生活しているということになります。誰もが、自立して生活しながら生涯を終えたいと願うのですが、そのためには、心身ともに健康であり続ける必要があり、これには若い時からスポーツを通じて心身を健やかに保つ習慣を身につけておくことが有益であることは十分に想像できます。どのような運動やスポーツがどのような形で健康寿命の延伸に寄与できるのか科学的見地から研究することは、社会の超高齢化の課題解決に大きく贡献するものと考えています。
もう一つの意味は、多様性に寛容な社会への贡献です。竞技スポーツでは竞争に胜つことが重要な目标ですが、一方でフェアプレーの精神が求められます。フェアプレーには、ルールを守って竞技を行うということだけではなく、败者や弱者への配虑も含まれます。例えば竞技としての徒竞走では结果としての顺位が重视されますが、世の中には运动が苦手な子もいれば、身体が弱い子もいます。胜者のみを賛美し、胜者が败者を思いやることのない社会は、豊かな社会とは言えません。性别、国籍、人种、宗教、健康状态などが异なる様々な人々がその违いを认め尊重する中で皆が生き生きと暮らせる社会を创らねばなりません。
先日全豪オープンを制したテニスのロジャー?フェデラー选手は数年前には圧倒的な强さを夸っており、男子シングルス1位にランクされていました。その当时、ある日本人记者がフェデラー选手にこうたずねました。
「なぜ日本のテニス界には世界的な选手が出てこないのか」
その时、フェデラー选手は
「何を言っているんだ君は? 日本には国枝慎吾がいるじゃないか!」と答えたと言われています。
国枝慎吾选手は车いすテニスのプロ选手で、グランドスラム大会で、男子世界歴代最多となる计40回优胜の记録を持っています。锦织圭选手が世界的に活跃する前の事ですが、当时、その日本人记者には障がい者スポーツとしてのテニスは认识されていなかったのです。それに対し、スイスのフェデラー选手にとっては健常者スポーツと障がい者スポーツの间の壁がなかったのです。
パラリンピックは障がい者スポーツの祭典ですが、日本で障がい者がスポーツどころか社会に参加するようになるには、长い歴史を必要としました。东京帝大医科出身で、后に整形外科教授となる高木宪次先生は、1918(大正7)年から1920(大正9)年にかけて东京の下町で肢体不自由者の実态调査を行い、「肢体不自由者は家の中に隠されている」という実态を知りました。彼は障がいを持った子どもたちにも自立した生活を送る人生を提供しなければならないとの思いを持ち、そのためには、医疗だけでなく自立した生活を送るための教育も必要と考え、1942年に整肢疗护园という施设を东京の板桥区に设立します。1963年には高木先生の尽力により、肢体不自由児施设の全県配置、すなわち各都道府県に最低一つの肢体不自由児施设の设置が実现しました。
この翌年の1964年11月に、パラリンピックが、东京で世界から约400名の选手が参加し开催されたのです。日本からは53名の选手が参加しました。日本人选手の多くは、国立别府病院や箱根疗养所に入院している人たちから选抜されたのでした。职业を持っている选手はわずか5名にすぎませんでした。つまりこの时代の日本では、障がい者はスポーツをすることはおろか、人前に出る机会も少なく、自立した普通の生活とは程远い状况だったのです。パラリンピック闭会式の后、欧米から参加した选手の中には、银座に繰り出したり、商谈に向かう人もあったようです。それを见た日本の人々はとても惊くとともに、障がい者が社会に参加することの重要性を强く认识したのです。
このような高木宪次先生の活动や、东京パラリンピックの経験から、障がい者の社会参加、特に生活の自立や就労に向けた取り组みが各地で行われるようになりました。昨年4月には障害者差别解消法が施行され、障害のある人もない人も、互いにその人らしさを认めながら、共に生きる社会を作ることを目指すことが法律で定められました。いわゆる障がい者だけでなく、先に述べたように、超高齢社会を迎える日本では、高齢者の多くが何らかの不自由を感じながら生きています。若い健常者のみが社会で活跃できるという状况では、日本は豊かな国として生き延びることができません。东京大学を卒业する皆さんには、あらゆる不自由を含めて人间の多様性を尊重し、豊かな社会を作るために积极的に関わってほしいと思います。
ここで、この「多様性」を支える重要な要素としての「自由」について触れておきたいと思います。自由な発想は学问の発展の原动力です。社会の中で他者と交わりながら生きていくためには、互いに自由であることが大切であり、そこで皆が自由を享受するためには、互いの个性の多様性を认めること、すなわち「多様性を尊重する精神」が必要なのです。自分と异なる个性を尊重する広い视野を持ち、自らと异なるものを理解し尊重し、他者と协调、共鸣する行动に繋げ、自由に学び自由に生活を送ることのできる社会を筑いていきましょう。
皆さんは东京大学で自由に学んできたと思います。东京大学で学问の自由が実现しているのは、自由を尊ぶ伝统と自由に対する情热とを持って受け継がれてきた先达の努力があったからなのです。皆さんには是非このことを心に留めていただき、皆さんの后辈たちがやはり自由を享受しながら学问や研究に没头できるように、様々な场面でサポートしてください。皆さんの知恵、これから社会で得る知见は、これからの东京大学をよりよくするための大切な资源です。
「卒業」は終わりを意味するものではありません。皆さんと東京大学とのつながりは永遠です。よりよい教育と研究の環境を備えるために、卒业生だからこそできること、卒业生にしかできないことを是非していただきたいと思います。
最后に、スポーツ先端科学研究拠点の活动の中から一つエピソードを绍介します。昨年12月に公益财団法人日本サッカー协会との连携协定记念式典をこの安田讲堂で行いました。ちょうど、贵滨贵础クラブワールドカップ开催中ということで、来日していた贵滨贵础のインファンティーノ会长ほかの方々も式典にいらしてくださいました。そこで、国际サッカー连盟事务総长代理のズボニミール?ボバン氏が讲演されました。彼はクロアチア出身で、ユーゴスラビア代表、クロアチア代表、そしてイタリア础颁ミランの选手としても活跃し、现役を引退した今もクロアチアの英雄です。
彼が选手として最も活跃した时代は、まさにユーゴスラビア纷争のまっただ中で、政治的に非常に不安定な时代でした。この中で彼は竞技のフィールドに立ち、感性を持つ人间というものの大きな可能性と心身の健康が社会を支えるというスポーツの力を信じ、サッカーを続けたのです。今ではかつての敌とより近づき、互いを尊重することができるようになり幸せであると述べていたことが大変印象に残っています。人间は知性に里付けられた感性という素晴らしい能力を备えた存在なのです。
卒业生の皆さんには、健全な肉体と精神を保ち、人間が持つ感性のすばらしさをいつまでも持ちながら、多様な人が参加する社会という豊かなフィールドで存分に活躍されることを期待しています。東京大学は皆さんが必要な時にいつでも戻ってこられる場となるように努力いたします。
本日は诚におめでとうございます。
平成29年 3月24日
東京大学総長 五神 真
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