平成21年度东京大学大学院入学式総长式辞
平成21年(2009年)4月13日
東京大学総長 濱田 純一
东京大学の大学院に入学なさった皆さん、おめでとうございます。これから皆さんが、大学院という新しい世界で、充実した学生生活をお送りになることを、心より愿っています。
そして、また、皆さんがいま、こうしてここにいることを可能にして下さった、皆さんのご家族はじめご関係の皆さま方にも、心からお祝いを申し上げたいと思います。
今年の大学院の入学者は、4,766名です。その内訳は、修士课程が2,968名、博士课程が1,383名、専门职学位课程が415名です。そのうち、男性と女性の割合は、ほぼ3対1になっています。また、入学者の中で留学生の数は500名ちょうど、つまり入学者の1割以上いらっしゃるということになります。
これだけの数の皆さんが、これから东京大学の大学院で、その専门的な知识をさらに深めるべく、勉学に励まれるということになります。
大学院における教育について、东京大学は、さまざまな形で、その充実を図ってきました。昨年度も、社会的ニーズを踏まえた新しい専攻の设置、また、経済や滨颁罢分野などでの大学院教育改革支援プログラムの実施、あるいは大学院レベルでの大学间学生交流の推进など、教育体制の充実?强化を行っています。また、博士课程大学院生に対する経済支援策を拡充し、奨学制度を着実に実施していくとともに、キャリアサポートや学生相谈体制の整备なども、大学として近年とくに力を入れてきているところです。
このような教育环境を整えることによって、皆さんが持っている素晴らしい能力が、东京大学の大学院において、さらに花开くことができるように、引き続き努力を倾けていきたいと思います。
さて、时代はいま、激しい変动の时期、大きな変化の时期を迎えています。金融や产业が世界的规模で动揺する中で、人々の生活の基盘も大きく揺らいでいます。こうした不安定な状况がいつまで続くのか、谁もが明确な回答を持っているわけではありません。また、とりあえず状况が一段落したとしても、それは、必ずしもこの危机の克服ということではないように思います。本当の「克服」というのは、こうした危机が二度と起こらないような、社会の仕组みと人々の考え方を、新たに作っていくということです。
つまり、この危机が克服された后の世界は、危机以前の状态に戻るというだけであってはならない、と思います。人类の知恵は、今回の危机から学び、谁もがより快适に安心して生活できる、そうした社会の姿を生み出していくことを可能とするはずです。それが出来ないのであれば、私たちの知识は何のためにあるのか、ということが问い直されなければなりません。
いまの时代は、これまで当たり前と思ってきたもの、いわば信用と信頼の体系が、がらがらと崩れている时代です。その意味で、この危机は、表层的なものではなく构造的なものです。こうした场面では、根本の部分から时代の课题にしっかりと取り组み、「未来に向けた确かな指针」を示すことが求められます。たしかに、目前の危机を回避するために応急的な対応は必要です。しかし、こうした时代だからこそ、目前のことだけに囚われるのではなく、20年、50年、100年先の、日本と世界を见据えた指针が求められるように思います。そのような新しい世界を描き、それに至る道筋を提示することができるのが、学术であり、大学です。とりわけ东京大学のような大学は、これからの「世界を担う知の拠点」としての役割を、果たしていかなければなりません。
滨罢やグリーン?テクノロジーといった分野をはじめとする新しい技术开発、医疗や生命にかかわる研究の展开、また、新しい时代を支える経済的な仕组みや制度的な枠组みづくりなど、东京大学の学术が「未来」の构想にかかわるべきことは山のようにあります。また、今回の危机で、「金融界では、すでに危机の顕在化以前に、多くの人が危ない状况だと思っていた。それでも止めることができなかった」、というような説明を闻くことがあります。そこには、人间や社会のあり方への、本质的な洞察を必要とする课题も含まれているような気がします。
そして、何より、东京大学は人材育成の场です。现在の危机からの回復のためには、ある程度の时间がかかるでしょうから、今日ここに入学式を迎えられた皆さんは、その课程を修了なさる时、おそらくは、まだ回復中の経済や社会のただ中に入り、その回復のための中核的な力としてご活跃いただかなければなりません。皆さんの力が、社会の「未来に向けた确かな指针」を生み出すのに与ることができるように、东京大学は皆さんを、しっかりと教育していきたいと考えています。
これまで、社会が数多くの课题を抱えていることに対して、东京大学は、新しい学术的な価値を创造し、また、多様な教育と研究のプログラムを构筑することで応えてきました。こうした挑戦をつねに可能とする、学术的な基盘の充実と発展には、引き続き大きな力を注ぎたいと考えています。东京大学の学术のウィングというのは、现在と未来だけではなく过去にも広がっています。知の创造にとって、未来に开かれた知の可能性に対する果敢な挑戦とともに、歴史に锻え上げられた知の蓄积に対する鋭敏な意识は、决定的な要素です。时代にもてはやされる学问だけではなく、多彩な学问分野を、时の制约を越えて确実に维持し発展させ続けることは、东京大学の夸るべき伝统であり、学术の基盘を豊かなものとし、创造性を生み出す源となります。
このような基盘の上に立って、现代のような厳しい时代に立ち向かう东京大学の役割を、私は、「知の公共性」という言叶で示しておきたいと思います。
「公共性」という用語は、とても長い歴史を背負った言葉です。人々の行動や组织の活動が、社会的な文脈の中に置かれる時、そこに「公共性」というテーマが発生することは、ある意味で当然です。同時に、この言葉は、なかなか扱いにくいものです。この言葉は、しばしば国家や権威と同じように見なされてきました。そうした意味で、個人や自由を尊ぶ人々からは、ときには消極的な評価を受けてきました。また、市場の価値や個人の自己責任が強調される時代には、「公共性」という言葉の意義が、いささか後退するように見えることもあります。
ただ、いまの时代、改めて「公共性」というテーマと、真剣に向き合うことが必要となっているように、私は感じます。これは必ずしも、昨年来の金融危机や产业の动揺が理由というわけではありません。そうした危机によって状况が加速された面はあるとしても、それ以前から、この日本社会の中で次第に顕在化しつつあった课题です。
すなわち、いまの社会では、さまざまな场面で、人々が共有できる価値が失われつつある、ということが言われます。むしろ、「格差」が広がる中で、社会の分裂ということが危惧されています。いわゆる「総中流」の意识が崩れて、経済格差の拡大していることが、すでに今世纪への変わり目の顷から议论になっていました。
また、地方と都市の格差、という课题もあります。地方自治をテーマにしている、あるジャーナリストが记していた表现が、大変印象的だったのですが、彼は、放射性廃弃物処理や限界集落の问题を事例にして、地方と都市が対立构造で描かれがちな状况を、「共感が失われた共同体国家」という言叶で示しています。また、「都市と地方は、同じ日本という国内でありながら、别の世界に住む人々と认识され始めている」のではないか、とも述べています。
あるいは、あるメディア论の若い研究者は、日本の各地で海外からの労働者の移住によって、「住民の多国籍化、多文化化」の状况が起きていることを指摘し、「异なる言语?异なる文化?异なる労働环境?异なる生を生きる人々の间をつなぎ止め翻訳し调停する」ことが必要だと强调しています。
「公共性」の再构筑といっても、何か论理操作によって新しいコンセプトを作れば、それでよいというものではありません。むしろ、これからの多様化する社会の中で、人々が共有できる価値を见出だし、あるいは创り出し、その発见や创造のためのプロセスを动かし、そして、その価値を実现していくための手段を考えていく、ということが必要なのです。そこでは、新しい知恵が求められています。私は、その媒介をするのが、知の公共性、学术の公共性、大学の公共性であると考えています。
言うまでもなく、それは、「権威」としての公共性ということではありません。学术や大学が、ただ権威をもって一方的に未来の方向を指し示す、ということではありません。欧米的な语源での公共性、つまりパブリックとかエッフェントリッヒカイトといった言叶には、公开性というニュアンスが本来的に备わっています。つまり、社会に开かれた议论のプロセスを通じて、人々が、未来に向けてお互いに共有できる価値と仕组みを作りだしていく、ということが求められていると思うのです。
実际、いまの社会の中で、新しい形で共通の価値や认识を见つけていこう、あるいは生み出していこうとする芽は、すでにあります。狈笔翱をはじめ、さまざまな人々のボランタリーな活动が、しばしばインターネットのような新しい通信手段も使って、空间的、あるいは时间的な制约を越えて、新しい公共性の世界を生み出しつつあることも、しばしば见られます。あるいは、もう少し制度的なことで言えば、この五月からスタートすることになる裁判员制度では、职业裁判官による、従来のある意味では権威的で専门的な司法というものを、人々により开かれた司法にしていくという意味で、公共性が権威的なものからより开放的なものに向かっていく时代の流れに、対応している印象を持ちます。
大学というものは、こうした新しい时代の公共性を生み出す、最高の装置です。大学は、新鲜な知恵と多様な価値、そして开かれた议论が支配している空间です。そしてまた、この空间は、决していわゆる「象牙の塔」として、闭ざされているわけではありません。今日の大学、とりわけ大学院は、さまざまな形の社会との连携によって、その知の生命力を高めています。これから大学院に入学しようとする皆さんにも、今日のように、その基盘から激しく问い直されている时代に、未来に向けて人々が共有すべき価値とは何なのか、人々に幸せをもたらす知识や技术とは何なのか、といったことを、大学院における学生生活の中で、折に触れて考えていただければと思います。
もちろん、こうした「公共性」という问题意识だけで、大学院での勉学が行えるわけではありません。せっかく、学部の时代よりはさらに、一段と奥深い研究を行おうとするわけですから、皆さんには、ぜひ、学问をするということの「わくわく感」を味わっていただきたいと思います。
どうすれば、そうした「わくわく感」をもつことが出来るのか。これには正直なところ、これだという明确な答えはありません。そこには、いろいろなきっかけがあるはずです。
ただ、私自身の経験から一つ言えることは、「违和感」というものを大切にするとよい、そこに宝が眠っているかもしれない、ということです。要するに、あれ、何か変だ、どうしてだろう、どうなっているんだろう、という気持ちを大切にしてほしい、ということです。
私は、大学院を法学政治学研究科で过ごしましたが、その时に研究していた中心的なテーマは、「自由と制度」というものでした。それは、ドイツ语の言叶で、「インスティテューショネレ?フライハイト」、つまり「制度的自由」という言叶に出会ったことがきっかけでした。自由と制度の组み合わせというのは、直感的に违和感のあるものです。自然法思想においては、个人の自由は、人间が生まれながらに持っているものであり、その意味では社会以前から存在しているものです。他方、制度は言うまでもなく、社会が出来てからの存在であるはずです。
しかし、さきほどの言叶は、自由と制度を结びつけようとするのです。それがどのようにして可能なのか、私は大変困惑しました。それは、知的紧张を高めるものでした。そして、その解决は、「制度的自由」という概念が、法律の世界の中でも解釈论と哲学论の境界に、また、法律の世界と社会的现実の世界との境界に位置して组み立てられている、と気づくことによって、はじめてある程度の合点がいきました。そこまで合点するために、私は、法律学の勉强だけでなく、国家学、社会学、そして人间学や文化学、さらには神学などの勉强も、少しばかりすることになりました。そうした幅広い勉强ができたのは、何より、最初に「违和感」を持ったからに他なりません。
ついでながら、この自由と制度の构造をつなぐ重要な键として、エラン?ヴィタル(生命の跃动)という概念があります。この言叶を、私は1920年代のフランスの公法学者の论文から学んで、当然にその学者の创作にかかる言叶だと思い込んでいました。
ところが、ほんの数ヶ月前、ある社会学の分野の先生から着书を送っていただき、それをぱらぱらとめくっていると、このエラン?ヴィタルという言叶が目に入って飞び上がりました。その言叶は、さきほどの公法学者の発明ではなく、同时代のフランスの哲学者の言叶だったのです。そして、実は、このエラン?ヴィタルというのは、少し哲学をかじった人であれば、おそらくは皆さんの中にもいらっしゃると思いますが、ああそれはベルクソンの言叶だと、すぐ気づくほど有名なものです。その点では、この话は、30年前の私が、まだまだ勉强が足りなかった、未熟だったというだけのことです。しかし、同时に、勉强というものは一生続くものだという、ある意味では当たり前のことに、改めてちょっとした感动を覚えたのも事実です。
さて、今日は、新しく入学なさる皆さんのご家族の方々、ご関係の方々もたくさんおいでになっています。皆さまにも一言申し上げておきたいと思います。大学院生になる皆さんは、たしかに学部の4年を终了した、しっかりとした大人です。当然ながら、「过保护」にしていただく必要はありません。完全に一人立ちしていくことが出来る皆さんたちです。
ただ、大学院での勉学、研究というのは、学部での勉强以上に、强い精神力と体力を必要とするものです。また、个人の内面での、孤独な、しばしば峻烈な作业となることも少なくありません。その点で、ご家族の皆さま、ご関係の皆さまには、どうか、そうした厳しい勉学に立ち向かおうとする大学院生の皆さんに、引き続き精神的なサポートをして差し上げていただければと思います。
东京大学は、いま、このように多くの皆さんが、ともに学术の可能性にチャレンジしていく仲间として、新たにくわわって下さることを、心から嬉しく思います。皆さんに、改めて东京大学としての歓迎の気持ちをお伝えして、式辞といたします。
|