平成19年度入学式(学部)祝辞
平成19年(2007年)4月12日
先端科学技术研究センター准教授 福島 智
皆さん、东京大学ご入学おめでとうございます。ひとことお祝いのご挨拶を申し上げます。皆さんは今、将来への希望に胸を膨らませたり、もしかすると既に明确な人生の目标があって、その目标実现のためにこれからの大学生活を送ろうと决意なさっていることと思います。あるいは、かつて私がそうであったように、大学入学时点では、まだ将来への明确な目标があるというわけではなく、しかし、大学で多くの人との出会いや様々な学问に触れることを期待してわくわくしている人もおられると思います。
ところで、皆さんは、将来の目标とか、卒业后の就职の希望といったこととは别に、人生における「梦」を持っておられるでしょうか。私には幼い顷から一つの梦があります。ちょっと口にするのが耻ずかしいのですが、それは「宇宙人に会いたい」という梦です。それが无理なら、せめて宇宙空间に自分が出かけてみたいという梦です。そして、この思いは、皆さんの多くと同世代だった18歳の顷から、更に强くなりました。なぜ、こんな梦を抱いているかと言いますと、宇宙は私の心の中の「第二のふるさと」のようなものだからです。少し私自身の体験をお话しさせていただきます。
私は1962年生まれで、现在44歳です。私は生まれてから9歳までは、目が见えて、耳が闻こえる、普通の子どもでした。わたしが小学1年生だった1969年7月20日、有名なアポロ11号の月面着陆という人类の歴史に残る出来事がありました。あのときのテレビ中継のインパクト、そして、新闻に掲载されたページいっぱいに広がるような、あの写真の大きさを今も忘れることができません。私はそのときから宇宙に心惹かれていました。宵の明星である金星の辉き、冬の夜空のシリウスやオリオン座の光に、子供心に何か吸い込まれてしまうような、そんな神秘的な感じがしていました。父に天体望远镜を买ってもらう约束をしたのは小学校3年生の2学期のことでした。しかし、それからまもなく私は失明してしまい、二度と星の光を见られなくなりました。
その后は、専ら音の世界に生きていました。目は见えませんでしたが、耳から入る情报もたくさんありますから、宇宙に関するテレビやラジオの番组を聴いたり、録音された本や点字の本なども読みました。木星を初めて间近に撮影したボイジャーの特集番组を、1980年の夏、テレビで聴いたことを思い出します。ところが、その年の暮れ、今度は耳が闻こえなくなり始めて、ほぼ3ヵ月の间に、全く见えない、全く闻こえない全盲ろう者の状态になってしまいました。
「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン?ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。见えなくて、同时に闻こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の侧の、真っ暗な宇宙空间に连れて行かれたような感覚に袭われる状态でした。何も见えず、何も闻こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言叶で表现できないような孤独と絶望の世界でした。
私が最もつらかったのは、见えない?闻こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で话すことはできました。しかし、相手の返事が闻こえず、表情も见えない私には、会话をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ强く実感したのは、人间には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。私がこうした絶望の状态から抜け出せたのは、母が偶然思いついた「指点字」という会话方法、点字の仕组みを応用して指先でタッチするコミュニケーション手段のおかげでした。それは、指から指に伝えるペンと纸を使わない速记のようなものです。このように、指先で私の指先をタッチしてもらいます。「あ、い、う、え、お???」と、このように伝えてもらうわけですね。ここで少しゆっくりと実演してみます。(※ここで、横に立つ通訳者に「あ、い、う、え、お」と伝えてもらい、指点字のデモンストレーションをする。)
私が絶望の状态から抜け出せたのは、もっと正确に言えば、この指点字という手段そのものではなく、その手段を使って実际に话しかけてくれたり、周囲の人の言叶や周りの様子を伝えてくれたりする「指点字通訳」というサポートをしてくれる人たちが私を助けてくれたからです。私はこの指先で伝えられる言叶の力によって生きるエネルギーを与えられました。
话は飞びますが、私も10年ほど前から、パソコンと特别なソフト、そして点字のディスプレー装置などを组み合わせて、贰メールをしていますが、私の贰メールでのハンドル?ネームは、贰罢です。これは「エクストラ?テレストリアル(贰虫迟谤补迟别谤谤别蝉迟谤颈补濒)」、つまり地球外生命体、要するに宇宙人の意味の略称ですが、私が盲ろう者になって、指点字を使い始めた1981年の翌年、スピルバーグ监督で有名になった映画のタイトルでもあります。その映画には、自らを贰.罢.と呼び、地球の花や木に指先で触れることで会话ができる宇宙人が出てくるので、それに引っかけたハンドル?ネームです。つまり私は自分が盲ろう者になって、いったん失った耳で闻くコミュニケーションを、今度は指先のコミュニケーションとして取り戻すことができ、これは宇宙空间のような状态から地球に戻ってきたまるで贰.罢.のような存在だと自分のことを半分冗谈、半分本気で思っている、ということです。
さて、话を戻しますが、私は高校2年生で盲ろう者となったわけですけれど、そのときは、そもそも高校を卒业できるのかどうかさえわかりませんでした。もともと大学への进学を希望していましたが、目が见えないだけでなく、耳も闻こえなくなったので、はたして大学进学などできるのかどうか、また进学はできてもその后、大学での生活が送っていけるのかどうか、更に言えば、もし大学を卒业したとしても、その后、仕事があるのかどうか、などなどと将来のことを考えていると、不安なことばかりでした。
そんなとき、私の高校时代の担任の先生は次のようにおっしゃいました。「先のことをいろいろ考えたって谁にもわからないよ。日本の盲ろう者で大学に进学した人はこれまでいないそうだけれど、前例がないなら君がチャレンジして前例になればいいじゃないか。君が大学进学を希望するなら応援するよ。うまくいかなければ、そのときまた考えればいいさ」と。そして、指点字の通訳者を育てたり派遣したりして、私の大学进学や入学后の生活を支えてくださいました。
こうして、私は1983年に東京都立大学に入学することができ、教育学を専攻しました。その後、大学院に進み、研究者への道を歩み、都立大学助手、金沢大学助教授を経て、2001年からは東京大学先端科学技术研究センターでバリアフリー分野の助教授として学生の教育と同時に、広い意味でのバリアフリー論や障害学の研究などに取り組んでいます。また、東京大学全体の物的?人的双方のバリアフリー化を推進する「バリアフリー支援室」の活動にも参画しています。
その一方で、私が大学に进学したことがきっかけとなって、日本でも盲ろう者について徐々に社会的に知られるようになり、私自身も、私と同じような障害を持つ盲ろう者のための福祉活动に取り组んで、现在、全国盲ろう者协会理事、世界盲ろう者连盟のアジア地域代表などを务めています。
なお、世界で最も有名な盲ろう者であるヘレン?ケラーは、今から约一世纪前、世界で初めて盲ろう者として大学に进学した人でもあります。彼女の言叶に次のようなものがあります。「人生は恐れを知らぬ冒険か、それとも无かのどちらかである」と。日本はややもすると前例を重视する文化が支配的ですが、前例がなければ自分が前例になる。先のことがわからなくても思いきってチャレンジする。こうした冒険心が人生には必要でしょうし、そうでないとおもしろくないと思います。
さて、话はアポロ计画に戻りますが、アメリカのアポロ计画、あるいは、人类の月面到达を最初に公にしたのは有名な35代大统领、ジョン?贵.ケネディです。彼は1961年の时点で、「60年代中に月面への人类到达を実现したい」と议会で演説しました。これほどスケールの大きな梦の表明は、歴史上、あまり例のないことだろうと思います。そして、アポロ计画やアメリカという国そのものには、様々な问题や课题もあるでしょうが、このケネディの宣言を本当に実现してしまうということは、やはりアメリカという国の底力、そして人间の可能性のすごさを私は感じます。
ところで、私は3年前、2004年の11月に、ワシントンで开かれたある国际シンポジウムで讲演をしたのですが、その折、偶然、このジョン?贵.ケネディの実の妹であるユーニス?ケネディ?シュライバーさんというとても元気のよい高齢の女性とお会いして、短い时间でしたが、面谈する机会がありました。私は二つの意味で、とてもエキサイトしました。一つは、ユーニスがあのケネディの妹であること、そしてもう一つは、ユーニスが、知的発达障害の人たちのオリンピックである「スペシャルオリンピックス」を始めた人だからです。一般にはあまり知られていませんが、ジョン?贵.ケネディの妹で、ユーニスのお姉さんにあたるローズマリー?ケネディという女性がいて、その女性は知的発达障害を持っていました。ユーニスが1962年に自宅の庭を开放して知的障害の人や関係者のためのデイキャンプを开いたのが、现在のスペシャルオリンピックスの始まりだと言われています。これはケネディがダラスで暗杀される前の年に当たります。
ここで、スペシャルオリンピックスについて详しく述べることはできませんが、简単に申し上げれば、それは通常のオリンピックとは异なり、竞争相手を打ち负かして、金メダルを取ることが真の目标ではないということです。それは多くの人の助けを借りながら、お互いの勇気を示し合う、そして竞技が终わればみんなが表彰台に上り祝福し合うようなそんな素敌なオリンピックスだということです。一昨年、2005年の2月に、长野県でスペシャルオリンピックスが开催されましたので、テレビなどでご覧になった方もおられるでしょう。なお、このスペシャルオリンピックスが复数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会に至るまで、いつでも、世界中のどこかで、この活动が行われているからです。そして、スペシャルオリンピックスの活动が目指す社会とは、一人ひとりの个人が自然に、あるがままに受け入れられ、认められるような社会だと言われています。
私はユーニスとお会いしたとき、ジョン?贵.ケネディが内面に秘めていたエネルギーの源の一部を垣间见た気がしました。ご承知のように彼は、一方で、ニュー?フロンティア政策や月面への宇宙探検など、アグレッシブで、アクティブな姿势を重视しているわけですが、それはただ単に「强い者だけが胜ち残る社会、竞争に胜った者だけが报われる社会」を目指していたのではなかったのではないか、と私は思いました。彼が真に価値を置いていたのは、すべての人间が、それぞれが抱える様々な条件と向き合いながら、自分と社会をより良く変革していくための努力とチャレンジをすること、言い换えれば、ニュー?フロンティアはどこか外部にあるのではなく、自分自身の中にあることを自覚することを诉えたかったのではないかと、私は感じました。
私は盲ろう者になって、その体験から二つのことを学んだように思います。一つは、人间は一人ぼっちでは生きていけないということです。他者とのかかわり、他者とのコミュニケーションがなければ、どのように知识や情报があっても、あるいは、すばらしいご驰走を食べていても、生きる上での魂のエネルギーは涌いてこないということです。そしてもう一つは、どのような困难な状况にあっても、可能性がゼロになるということはない、チャレンジし、现状を変革していく可能性は必ずある、ということです。
皆さんは、これまで大変な困难を乗り越え、チャレンジし、そして东京大学に入学なさいました。これはすばらしいことです。これからも、学生时代や大学を卒业して社会に出てからも、様々な种类の困难やチャレンジを経験なさると思います。最后に、困难に挑戦するということについて私が考えることを申し上げます。
私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形?无形の他者の手助けと共にあるものだと思います。
挑戦とは、単に无谋な危険を冒すことではなく、地道な努力と準备があって、成功するものです。
挑戦とは、相手を打ち负かして竞争に胜つことを意味するのではなく、その本质は、自分自身に挑戦することです。
挑戦とは、他者の立场を想像する力と、他者と协力しながら新しいものを生み出していく営みです。
挑戦とは、ときに孤独なものですが、一人だけで生きている人间は世界中どこにも存在しません。周囲の人とのつながり、他者とのコミュニケーションを常に重视すべきです。
そして、挑戦とは、常识的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目标なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困难な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。
私は先ほど、「宇宙人に会うのが梦だ」と申し上げました。その梦は今も変わりませんが、実は既にその梦の一部は実现しています。なぜなら私たち全员は地球上にあって、太阳の周りを回りながら、そして天の川银河の回転に乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙に共に生きている「宇宙人」同士だからです。
とはいえ、皆さんと、たとえば盲ろう者の私との间には、様々な相违点があり、大きな距离が开いているかもしれません。见えない闻こえない私には、直接皆さんを把握することはできないからです。しかし、考えてみれば、人は皆、直接、他者の本质を把握することはできません。できるのは、互いの魂にそっと触れ合うことだけです。そうであればなおのこと、互いに触れ合うことを大切にしていきましょう。共に宇宙を旅する仲间として、これからも一绪に歩んでいきましょう。そして、东京大学というフィールドを拠点にして、新しい冒険とチャレンジの歴史を筑いていきましょう。
本日はおめでとうございました。
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