大日本古记録 平記 [上]
『平記』は、平安時代中期から末期にかけて活躍した桓武平氏高棟王流の6名、すなわち平亲信 (946~1017)、亲信の孫の平范国 (生没年未詳)、范国の弟の平行亲 (同)、行亲の子の平定家 (同)、范国の孫の平知信 (?~1144)、知信の子の平時信 (1104~1149) の日記の総称です。本書の刊行は全2冊の予定で、この上冊には亲信?范国?行亲?定家の4名の日記を収めています。それぞれの日記が残る年は、亲信が天禄3年 (972) から天延2年 (974) まで、范国は長元9年 (1036) と永承3年 (1048)、行亲は長暦元年 (1037)、定家は天喜元年 (1053) から康平5年 (1062) までです。
『平記』の原本は今のところ全く存在が確認できませんが、平安時代後期に平信範 (知信の子で時信の弟) らが書写した古写本12巻が、摂関家筆頭であった近衛家の史料群を管理する公益財団法人陽明文庫などに現存し、最も信頼できるテキストとなっています。大日本古记録では、これらの古写本が存在する部分については全てそれを底本とし、古写本が伝わらない部分については諸写本を比較検討して校訂し、最善のテキストを提供します。また、読解の助けとなるよう人名?地名等については傍注を施し、記事の内容を簡単な見出しで示しています。
さて、同じ桓武平氏であっても高見王 (高棟王の弟) の子孫の方は、平貞盛や平清盛などが著名なように、主に東国や伊勢で武将として活躍したのに対し、高棟王の子孫は京都の貴族社会のなかで朝廷に出仕していました。『平記』を残した亲信たちも、代々、天皇の秘書官というべき蔵人や平安京の治安維持を担った検非違使などの役職を勤めるとともに、宮廷で権勢をふるった摂関家にも家政機関の職員 (家司) として仕えていました。
特に、亲信の子孫は同時代の人々から「日記の家」と称されていて、代々が詳細な日記を書き残し、それらを継承して家の記録 (家記) を形成し、それぞれが仕えた摂政?関白などからの諮問に答えることで、貴族社会のなかで存在感を示していました。そのため『平記』には、蔵人や検非違使などの職務に関する内容と、摂関家の家司として関与した出来事が詳しく筆録されています。
例えば、永承3年10月に関白藤原頼通が高野山金刚峯寺に参诣した际、范国は頼通の命によりこれに供奉して详细な记録を残しています。それを読むと、自分のことを「范国」と书くなど客観的な叙述态度を意図しつつ、同行者の名前、淀から金刚峯寺までの往復の行程、利用した船舶の装饰や乗组员の服装、宿泊施设の构造、経路の国々の国司や摂関家の所领から提供された物品の数々、住吉社?金刚峯寺?粉河寺?四天王寺の様子、淀川?吹上浜?和歌浦などの情景、江口?神崎の游女とのやりとりなど、细かく记録しています。
日本风の汉文で书かれているため、独特の文体に惯れるまでは少々难読かも知れませんが、ぜひ一度手に取って、平安时代后期の社会の様子を追体験して顶ければ幸いです。
(紹介文執筆者: 史料编纂所 教授 尾上 陽介 / 2022)
本の目次
天禄叁年叁月~十二月
天延元年正月~六月
天延二年正月~六月
天延二年七月~十二月
范国
长元九年四月~十二月
永承叁年十月
行亲
长暦元年正月~十二月
定家
天喜元年二月~同五年十一月
康平元年二月~同叁年十二月
康平四年正月~同五年十二月
関连情报
自着解説:
[史料編纂] 出版報告『大日本古记録 平記 上』(東京大学史料编纂所報 第57号 [2021年度] pp. 62-65 2022年10月)