教育哲学のデューイ 连环する二つの経験
本书は、デューイの思想を「教育哲学」として読むという试みである。これまで行われてきた「教育哲学」&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;「道具主义」「実験主义」「経験论」「プラグマティズム」と形容されてきたそれ&尘诲补蝉丑;&尘诲补蝉丑;とはちがう「教育哲学」として、である。端的にいえば、それは「存在论」としての「教育哲学」である。
ここでいう「存在論」は、ハイデガーのいうそれである。すなわち、ある人が現に存在すること、すなわちほかならないこの人として固有本来的に生きることを語ろうとする言説である。この現に存在すること、つまり「現存在」は、「実存」(existential [外へと向かい在ること])であり、したがって「超越」(transcendentia [境いを超えて上がること])である。この「超越」は、通例、「形而上学」と訳されるMetaphysicaの原義に近い。phsisは、出自?本性?習性?外見?自然などを意味するが、ここでいうMetaphysicaは、もっともらしく見えるものを超えるという、蠢動態である。
私にとって、教育においてもっとももっともらしいものは、「自己」(ego) が自明のごとく前提にされていることである。「自己」は、意図し思惑し欲望するそれ、「エゴイセントリズム」の「エゴ」である。なるほど、およそ人は、「自己」によって生きているが、ときに (しばしば) 「自己」を超えて生きている。たとえば、「忘我」「無我」「夢中」「取り憑かれたように」「思わず」「いつのまにか」と形容される言動のなかに見られる。意図し思惑し「愛」することもあれば、唐突に自然に「愛」することもあるように。
私たちのもっとも身近な意识的営みが「経験」であるとすれば、その身近な「経験」のなかにこそ、事実の学も规范の学も语りえない超越が、见いだされる。俗世を离れたところに笼もり「修行」することによってではなく。重要なことは、踏まえられる文脉である。「経験」という言叶を「経験论」を文脉にして使うかぎり、この超越は现れないが、この言叶を存在论を文脉として使うなら、この超越が现れる。
つまり、教育というまさに身近な営みに、「自己」からの超越を見いだすこと、存在論を文脈としたそれを見いだすことが、ここでいう <教育哲学> である。したがって、本書で読みとく「経験」は、エヴィデンスに固執する人が使うそれではなく、デューイが「形而上学的転回」以降によく語るようになったそれである。
(紹介文執筆者: 教育学研究科?教育学部 教授 田中 智志 / 2020)
本の目次
——「経験の再構成」とは何か 田中智志
第1章 デューイ思考教育论の実践
——ホーレスマン?スクールにおける実験の成果と課題 佐藤隆之
第2章 教育と民主主义の再建のために
——現代社会の危機とデューイの学習思想 松下良平
第3章 デューイにおける「経験の分有」の思考
——目的合理性と合一的共同性を超えて 木下 慎
第4章 文化的自然主义の教育思想 加贺裕郎
第5章 「成长」を支える経験と自然の一元的多元性
——デューイ自然主義における質概念 井上 環
第6章 デューイの芸术論にみる、一でありかつ多であること
——ベルクソンとジェイムズへの言及をてがかりに 西本健吾
第7章 デューイとアダムズにおける「剧化」の教育思想 古屋恵太
第8章 科学技术の倫理とコモン?マンのデモクラシー
——デューイの教育思想からグローバル化時代の「公衆」論へ 生澤繁樹
第9章 デューイの知性论についての考察
——「知性的」な思考についての自然主義的アプローチ 藤井千春
第10章 デューイのエマソンとは谁か 高柳充利
第11章 デューイのコミュニケーション概念 田中智志
終 章 连环する二つの経験
——デューイとともに教育を哲学する 西本健吾?田中智志