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平成30年度东京大学学部入学式 祝辞

式辞?告辞集 平成30年度东京大学学部入学式 祝辞

 

いくつものハードルを越え、この大学を选び、そして多くの家族や友人の祝福を受けながら、今日ここに集まった新入生の皆さまに、心からのお祝いを申し上げたいと思います。わたくしは去年の3月まで、およそ多くの皆さまが生まれたであろう2000年から17年间、驹场の教养学部で日本の古典文学を教えていた者です。

 

わたくしはアメリカで育ち、皆さまとほぼ同年齢で日本语に出会い、その日本语を使ってどう生き、何を生业とするかを真剣に考えた末、日本文学の研究者になることを选びました。20代の后半に来日、幸いめざしていた学问の道筋と与えられた环境が一致したので、今日このように、一度も母语が通じ合える国に戻らず、豊富な文献资料と优秀な仲间に囲まれ、励まされ、その资料が书かれたのと同じ日本语を通してすくすくと充実した日々を送ることができました。

 

しかし歳月は、いいことばかりを运んでくれるわけではありません。山や川よりも人の心、とくに心に测り知れず大きな力を及ぼす言叶のボーダーを越え、人と共に学び、働き、爱し合うことの难しさについて、気づかされることも多くありました。

 

わたくしが今も解决できずにいる2つの问いがあります。そこで今日、皆さまと一绪にそれらのことについて考えてみたいと思っています。

 

ひとつ目。人が他者を理解しようとボーダーを越えた时、その行為が寄り添うこととして喜ばれるのか、それとも行き过ぎた文化への立ち入り、英语でいう肠耻濒迟耻谤补濒补辫辫谤辞辫谤颈补迟颈辞苍に当たる无神経な模倣や真似として否定されるのか、その线引きが実はわかりにくい。

 

世界の、とくに欧米の情势からすると、皆さまが成人になろうとする现在においては、友爱精神だけでボーダーを軽々と越え、文化を共有するなどという甘い梦は描けません。出会うその瞬间から、相手に関する确かな知识と感性が问われる时代になりました。

 

お金があり、文化へのアクセスも汤水のごとく自由になる社会の一部が、それまで抑えられてきた人々の领域に土足で立ち入る。アメリカの例でいうと、非白人系や少数の人々たちの歴史やライフスタイルを、そうではない人たちが利用し自分のものであるかのように资本として使うことに対する嫌悪や警戒心は、年々、募っているようにみえます。

 

つい先日、わたくしが生まれたニューヨークのブルックリン美術館では、アフリカ芸術部門の学芸員として31歳になるアメリカの白人女性を採用しました。美術史家である彼女の資格に問題はありませんが、ニューヨーク市にある活動家団体は、白人であるということでこの人事に反対しています。さらに自分たちのものでもない文化に越境して入り込み、ということは言い換えれば黒人などを排除してきた欧米における美術史という学問領域も、「美術館」という制度そのものも、legacies ofoppression「抑圧の遺産」と見なして、さしあたりこの女性の即刻解雇を要求しています。

 

わたくしの知人で、长くドイツに住み活动を続けていらっしゃる多和田(たわだ)叶子(ようこ)さんという作家がいます。去年东京で会い、2つの文化を自在に行き来する彼女に対し、これらのことをどう思っているか问うてみました。すると、兴味深い言叶が返ってきました。

 

多和田さんは数年前、福岛の原発事故に取材して作品を书きました。その际、当事者ではない人が本当には理解できないことだから书くべきではない、他人の苦しみを资本に小説を书き、金储けするのはけしからんことだと思う人たちがいることを初めて知ったと言う。福岛の人からみれば东京で生まれた彼女は确かに外部の人ではあるが、原発事故を题材に小説を书いているドイツ人たちから见ればまさに内部の人间に见えます。多和田さんいわく、「自分以外の存在になりきってみる、それができなければ文学は成り立ちません」、とまで言い切っていました。

 

日本で日本文学の研究机関を率いるわたくし自身はというと、先ほど述べたアフリカ芸术が専门の白人女性学芸员に近いものがあるのかもしれません。わたくしはしかし、何千人もの日本人学生に、彼らの文化的主柱である古の文学を教えてきました。街に出かけては日本の民族衣装である着物を着流しで歩き回っていても谁も文句を言いません。むしろ、「日本人以上に、日本を知っている」というシュールに闻こえるようなほめ言叶を向けられます。真似ることを文化创出の土台にまで昇华させた日本人だ、と考えれば最高の賛辞に闻こえますけれど、わたくしにはしっくり来ません。

 

アメリカで暮らすアフリカが専门の研究者と、日本にいる日本が専门の研究者との违いについて、それぞれが生きる地域の歴史に即して、その背景を丁寧にほどいていく必要はあると思います。しかし、まず当事者であるわたくしにとって大事なのは、挨拶代わりに「日本人以上だ」などと褒めてくれる人の好意を受け入れながら、その気持ちに添わず、むしろ批判する能力を持つことだと考えます。「いえ、そんなことありません」と答えるわたくしは、谦逊というよりも「「日本人」って谁?」、「「日本人以上」とは论理的でないよね?」という冷淡な抗いを込めていますが、同时にわたくしを前にした相手の、その时のおそらく偽らざる気持ちを想像すると、その気持ちに共感を寄せざるを得ません。そもそもわたくしは他者への好奇心から今のような存在になったのですけれども、文脉と场所によってわたくしのような存在は人を伤つけることもあり、新たな优れた表现や学び、あるいは学术的知见を生み出すきっかけになるのかもしれません。これから何かを学びながら、大きく変わるに违いない皆さまも、これから、他者と渡り合っていく一人ひとりのバランスを図らなければなりません。このバランスを支えるのは、他でもない、「教养」だと思います。

 

いま、共感といいましたが、わたくしがもう一つ釈然としない、ふたつ目の问いは、この共感に関すること。それは、共感や思いやりと言った谁もが否定し得ない衝动のような気持ちが具体的にどういう条件のもとで、人の幸せに繋がるのか、繋がらないのか、ということです。

 

教養とは、自分の経験から思いも寄らない他者の言葉にふれたり、前時代に起きたことがらに対して思いを馳せ、知ったりすることで自らを変える力を蓄えることだと考えます。むかし日本語で「おもいやる」と書くのに、「想像」、英語の「イマジン」を意味する2つの漢字を当てていました。自分ではない他者の痛みに思いをやる- 「やる」は 「派遣する」の 「遣」と書きます - つまり送り込むことによって、自分のことをふり返る、内省する、前に進む能力を培います。ひっくるめていうと共感、英語で言うエンパシーになります。

 

アメリカのオバマ大統領はかつて、世界の紛争はエンパシーの不足から起きると演説のなかで指摘しました。イスラエルとパレスチナの問題は「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時に初めて解決されます」(when those on each side "learn to stand in each other's shoes")、そういう名言を残しました。

 

しかし人の履き物を穿いて地上を歩き続けるのは中々しんどいことで、大抵の人はできません。日本は外から见ると平和で安定した社会に见えますが、中には多くの亀裂があり、先日の新闻には、子供を持つ亲の过半数が、所得格差による学习への机会がでこぼこになることを「仕方が无い」と答えたという调査结果を発表しています。朝ごはんも食べられないまま学校へ通う子供が大势いるという现実も、日本の「见えない贫困」、可视化されない不公平を里打ちしています。

 

ここに、徳川时代の江戸で出版された一册の本があります。本草学者が书いたもので、タイトルは『豊年教种』。天保4年、1833年だから江戸市民が大飢饉に直面する最中に书かれ、流通した一种のサバイバルマニュアルです。読者に対して、一番困っている人たちにどう接触すればいいかということを説いています。「飢えたる人に粥を施すにハ、尤も恭しく谨(ん)で与へ」るべしと。お粥を作って、近所で飢饿に苦しんでいる人に食べさせる。その时重要なのは、普段より丁寧に手渡しをするということ。

 

「必々不逊(ぞんざい)にして人を耻(はずか)しむべからず。其(その)人の穷するも、全く天时の変によりて然らしむるなり」、と。あなたから茶碗を受け取った人が困っているのは、気候や天灾のせいであって、明日は我が身かもしれません。中国の『礼记』にあるように乞食が戸口に现れたとき「乞食だ、これを食え」と言われれば、その乞食もプライドがあれば「お前の饭なんか食わない」と言って黙って饿死してしまうかもしれない、だから相手の立场をよくよく汲みなさい、と忠告します。「此ごとくなれバ施(す)にも不逊(ぞんざい)にてハ阴徳にハならず、却て徳をそこなふ也」と。

 

人にいいことをしようとして、かえって自分の信用を落とし、幸福をすり减らしてしまう危険性を、この本の着者は有事の际にこそリアリティ溢れるディテールで述べ切っています。急いで多くのものをいっぺんに食べさせてはいけない、飢饿者に热いものを渡してはいけない、というように、具体的で検証可能なファクトに基づき、他者への共感を呼びかけています。

 

今わたくしたちの目の前に広がる虚报、いわゆるフェーク?ニュースも、「共感」を煽ることでエビデンスとは无縁の主张をかかげ、その主张だけが人々を幸福に导き得るという危険な环境に我々を追い込もうとしています。世界中に広がり、现に、生き死にに関わる争いの引き金にもなっています。

 

さて、大学でできること。头とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目标について他者に説明する言叶を磨くこと。ファクトを切り出して、论理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教养であると、私は考えます。

 

平成30年(2018年)4月12日
国文学研究資料館長 ロバート キャンベル

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