第1175回淡青評論

七徳堂鬼瓦

「一身にして二生を経る」ということ

东大柏キャンパスのある千叶県柏市から、単线の成田线にゆられて銚子に向かう途中に佐原という町がある。利根川に面した水郷として知られ、江戸时代に水运の中継地として栄えた。十七歳の伊能忠敬はここで造り酒屋の婿养子となり、商売で财をなして四十九歳にして隠居、つまり経済的な自由と时间を手に入れた。そこで彼は江戸に出て天文学を学び、その延长で当时としては惊くほど精密な日本地図を作ることになる。残念ながらその日本地図の上呈本は明治の皇居炎上で焼失し、东京帝国大学に保管されていた副本も関东大震灾で焼失したという。过日、佐原の伊能忠敬记念馆で现存する地図を见たが、その正确さと緻密さには感嘆させられた。また、地球の大きさを测定するという当初の目的や、正确な时计がないために経度测定が难しかった话など、非常に兴味深いものがある。本稿の表题は福沢諭吉の述懐だが、伊能忠敬の人生も违う意味で「二生を経た」といえるだろう。

考えてみると我々の人生でも、「二生を経る」ことは少なくないように思う。何かを失う、あるいは何かを得ることによって、人生の意味合いが大きく変わったり、新しい生き方や考え方につながったり、という経験をしている人は意外と多いのではないだろうか。大学で研究をしていると多少の波こそあれ、若い顷に始めたテーマを広げていくことが当たり前になっているが、他の可能性はなかったかと自问することも多い。例えば东京大学にはサバティカル制度があるが、実际にはあまり活用されていない。人は本来自由であるべきだが、我々は何かに缚られすぎていないだろうか。

もう少し視野を広げて大学というものについて考えてみると、「どうすれば社会の役に立てるか」という議論を見る機会が多い気がする。これはある意味、時代的な流れではあるのだろう。しかし大学、あるいは学問の役割として最も素朴で大切なものは、人に文字通り「目からうろこ、eye-opening experience」を与えることではないかと思う。それは「一身にして二生を経る」ための入り口でもある。

板谷治郎
(物性研究所)