第1162回淡青評論

七徳堂鬼瓦

选抜はするけれど

学振や科研费などの採択発表の时期になると、厂狈厂では「採択された」という情报で溢れ、あたかも、ほとんど全ての人が採択されているようです。わざわざ不採択を宣言する人は少ないし、各厂狈厂の表示のアルゴリズムにも依存しているので、正确な状况を表していないことを重々承知していても、やはり、目に入ってくる情报には惑わされます。実际、科研费はともかく、学振の场合、採択されなかったことを、もう挽回できない失败と捉えてしまう若い人が少なからず见受けられます。そういう人たちには、「不採択」情报があると良いかもしれません。

そうすると私はお役に立てます。学振には复数回応募しましたが、採択されたことはなく面接に呼ばれたこともありません。しかし、その后30年近く研究の道でなんとかやってこられました。私の申请书はひどいもので、とても人に见せられるものではありませんでした。しかし、そこから、自分の研究内容や构想をどう表现し人に伝えるかについては、何年もかけて学びました。将来が定まっていない若い人に余裕を持てと言っても、无理な话ですが、ある时点の评価よりもその后の人生のほうが长く重いことも、伝えなければならないことと思っています。

现在の大学院生には、学振以外にも、いろいろな経済支援がありますが、その分、早い段阶で、採択?不採択の评価を受ける机会も増えています。枠が决まっている以上、选抜は避けられません。私もそのうち一つのコーディネータをしているので、言いにくいところもありますが、选抜の结果は研究者としての将来を保証しているわけでも、否定しているわけでもありません。金銭的援助の有无は决定的に重要ですが、それと自身の能力を直接结びつけるような先入観を持って欲しくはありません。优秀な研究者を育てるには、优秀な人たちだけを相手にすれば良いというものでなく、多くの普通の人を(画一的という意味でなく)丁寧に育てるしかないと、私は思うのです。

齐藤宣一
(数理科学研究科)