第1154回淡青評論

七徳堂鬼瓦

餠は餠屋

かつて私は东京大学総合研究博物馆に所属し、学术的な展覧会を计画する机会を几度となく得ることができました。このようなイベントを成功させるため、私は常に最高の専门家に相谈しました。共同研究の依頼と同様に、データベースを活用し、键となる论文を精査し、関连论文を熟読した上で、最适な専门家に连络するのです、「先生は私をご存知ないですが、私は先生のことよく知ってるんです」。

相互のメリットが明瞭な共同研究と异なりますが、断られた経験はほとんどありません。卓越した研究者は多くの场合、「よいものを広めたい」という情热に燃えているのでしょう。その情热が原动力となって、知的好奇心を强烈に刺激する优れたコンテンツが生まれます。学术分野の进展に着しい贡献をした研究者は、谁よりも深くその分野の真髄を见抜けるので、その研究者による平易な解説こそが、最も贵重なコンテンツになるのです。

しかしコンテンツは优れていても、それが人々に伝わるかどうかは话が别です。ここには全く异なる要素が入るのです。私自身は理系の研究者ですが、文系の力や芸术的な感性が非常に重要であることを痛感し、より强くリスペクトするようになりました。さらに、子供たちとのコミュニケーション能力やビジネススキル、イベントの雰囲気づくりの才能なども重要な要素です。餠は餠屋と言いますが、自分である程度できそうでも、専门的な能力を持つ一流の人材に頼る方が、遥かに良い结果が得られます。

内容は优れているのに、その良さが伝わらない――このような构造は、学内组织においても见受けられます。大学ランキングや海外でのビジビリティが良い例でしょうか。昨年、私は専攻长として、私たちの组织が抱える问题点について所属する全教职员と议论しました。とめどなく问题点が指摘される中で、洞察力の鋭い教员がひとことでまとめてくれました。「本来は得意でない雑务に、必要以上に热中してしまう教员の“凝り性”が问题だ」。

教员は研究と教育に集中すべきです。研究教育に関连が薄い业务は教员にはやらせず、外部组织の协力を创造的に取り入れる方が、効率が良さそうです。

宫本英昭
(工学系研究科)