第1146回淡青評論

七徳堂鬼瓦

あの戦争

8月なので戦争の话をしよう。小学生だった1970年代半ば、近所の空き地にうち捨てられた长めの竹筒を工作の材料とするために友人と运び、通りがかりの男性に「君たち、爆弾叁勇士ごっこをしているのかね」と寻ねられた。何と误解されたのかわからないまま否と答えたが、爆弾叁勇士とは、1932年の第一次上海事変の际、竹片で爆弾を包んだ破壊筒を用いて中国军の构えた鉄条网に突破口を开く作戦に従事し、生还に失败して爆死を遂げた3人の日本军兵士が报道によって英雄视されたものであることを后年に知った。今にして思えば、55歳定年が主流だった当时、小学生が初老と感じた男性は现在の私よりもだいぶ若く、少年のころ「爆弾叁勇士ごっこ」を游んだ世代だったのではなかろうか。経过した时间以上の时代错误を「爆弾叁勇士ごっこ」に感じるのは、「あの戦争」に大きな时代の区切りを认めるからに他ならない。

私の専门とする日本の中世において、当时から大きな时代の転换点と认められて「あの戦争」と呼ばれたのが、1467年に生起して11年间続いた応仁の乱である。この戦争を机に频出する「一乱(いちらん)」という言叶に注目したい。早く1470年に「一乱のあいだ」つまり「(现时の)戦争が続くうち」との文言であらわれ、乱の终わる1477年に「一乱の始めに至るまで」すなわち「(今回の)戦争が起きるまでは」と见え、终结后は「一乱以来」のように「(この前の)戦争以降」という文脉で多用された。「一乱」一语で応仁の乱をさす事例は1530年顷まで少なからず所见する。「一乱」とは戦争の谓であり、いわば「この戦争」そして「あの戦争」なのである。京都では20世纪まで「この前の戦争」が応仁の乱をさしたという都市伝説も、その延长线上に位置づけられようか。それでも、応仁の乱が「一乱」一语で多く呼ばれた期间はおよそ半世纪であった。世代交代がすすみ、戦乱が継起するなか、「応仁の一乱」のような呼称が増えたのである。

片や、アジア?太平洋戦争は、今なお「あの戦争」として语られる。あるいは、単に「戦争」と呼び、「戦灾」の一语で同戦争による罹灾をいうのも同じことだ。平均寿命の违いを考えれば同等と言えないこともないが、「あの戦争」と呼ばれる期间で応仁の乱を超えた。もう「爆弾叁勇士ごっこをしているのかね」と讯く大人はいない。

末柄 豊
(史料编纂所)