第1144回
謦咳に接する
「謦咳に接する」という言叶がある。元来は、尊敬する人の咳払いを身近に闻く、という意味らしいが、文化の违いを越えた学びにも人と人との密接な交わりが大きな役割を果たすのではないだろうか。
初めての长期の在外研究についた顷の紧张はいかばかりであったか。文部省から命ぜられてロンドンに赴いた漱石とは比べものにはならないが、当时の张り詰めた気持ちは今でも鲜明な记忆として残っている。异文化の中に身を置いて生活を始める中、研究の指导を頼った硕学の前で过ごす时间はとても贵重なものであった。活字を通しただけでは得ることができない多くを学んだように思う。
教える侧からいえば、本学の先生方もそれぞれの専门分野に合った工夫を重ねながら学生の指导に尽力されてきたに违いない。文系の附置研究所に所属する自分の経験は限られているが、答案やレポートの採点、添削に始まり、研究伦理の彻底を含めた论文执笔の指导に至るまで、多大な労力を注いでこられたであろう。理系で始まったアカデミック?ライティングの教育も、近时では文系にも波及し、充実を増しつつあると闻く。国际的な研究活动の轮に加わるには、英语を使いこなすことが肝要だとする认识が深まってきた。
コロナ祸が始まった顷、大学院の运営业务に携わることがあった。远い分野の博士论文の审査にも加わったが、日本语を母语としない院生が执笔した论文もその中に数えられた。日本语でのアカデミック?ライティングを指南される先生方のご苦労も推し量るしかないが、少なくない论文が高い水準に达し、日本语を媒体とする学术が展开する可能性にも改めて目を开かれる思いであった。
当分の间はソーシャル?ディスタンスを守り、他人の咳払いから身を远ざける注意を怠ることはできないだろう。それだけになおさら强く、教员と学生が隔てなく接することができる日の再来を愿わずにはいられない。
平岛健司
(社会科学研究所)