第1129回
「3密」からハコの外へ
韩国の大学で教える元指导学生のすすめで碍贵94マスクを使うようになった。その安心感たるや、それまで爱用していた不织布マスクがいささか心もとなく思える。そこでこれを标準装备する韩国と、规格が曖昧な日本の违いは何であるのか考えてみた。
マスクに対する感覚の违いは、それを着用してどのような関係を作ろうしているかの违いかもしれない。韩国で长年フィールドワークを行ってきた経験からいうと、この国の人たちは社会的?身体的距离の远近に敏感である。実际、コロナ防疫として「コリトゥギ」(距离をとること)という言い回しが定着し、人と会うことについても「5人以上の私的集まりの禁止」といった直截的な话法で通じるようだ。距离が関係に织り込まれており、関係を生身の人同士の距离として直接的に认识?想像できるのだと思う。标準化された対策を个人レベルで取れるのはそれゆえか。
これに対し日本では、「3密」という空间的な比喩を用い、人をいわばハコのなかに入れることで、初めてすとんと腑に落ちる。関係を距离でなくハコとして捉えることのリアリティは、研究室や医局が単なる物的な空间ではなく、集団(箱の中身)や役割?アイデンティティ(箱书きのようなもの?)と不可分であることを思い浮かべればよい。マスクの作法もハコ次第である。逆にハコに入っていない人たち(ならびに物的空间と集団のすき间に居あわせる人たち)の関係は曖昧になる。キャンパスの感染予防対策でも、ホールや谈话スペースなどハコとして想像しにくい、箱书きもないような场所での人の交わりには、比较的配虑が少ないように思える。
今、研究?教育の现场で切実に不具合を感じるのが、教室(オンライン会议室)というハコの外での、何気なくも情动的な交流の不足である。4月からの新学期はおそらく前年度よりハイブリッド授业の比率が高まり、キャンパス内外の人出も多くなるであろう。隣国に思いをはせつつ、ハコの内外を贯く関係づくりに今一度想像をめぐらせてみてはいかがであろうか。
本田 洋
(人文社会系研究科)