東大の学園祭といえば本郷の五月祭が有名ですが、駒場Ⅰキャンパスで開催される駒場祭も忘れてはいけません。1950年に始まってから一度も中断せずに続き、昨年には70 周年という節目を迎えた貴重なビッグイベント。自らも学生時代に五月祭?駒場祭の実行委員を経験し、大学院では学園祭の歴史を研究しているという「ミスター学園祭」が、その研究成果を紹介します。
1驹场祭の前史
起源を遡ると、旧制第一高等学校(一高)でおこなわれていた「纪念祭」という寮祭が驹场祭の前身にあたります。自治寮の成立を祝って茶话会が催され、演説、剣舞、寮歌の披露など様々な催し物が开かれ、学生、教员、卒业生が交流し、そして学内を一般に公开する机会でした。1935年に一高が本郷から驹场に移って以降も、旧制高校が廃止される直前まで开催され続けました。
2纪念祭构想の顿挫
駒場の地に誕生した新制东京大学の教養学部では、1949年に入学した1期生から「一高の伝統だった紀念祭を教養学部でもやろう」「本郷の五月祭に対応する行事を駒場でも」という声が生まれました。しかし、初代教養学部長の矢内原忠雄が「入学して1年もたたないのに市民に発表すべき何があるのか」と反対し、開催は認められませんでした。矢内原は一高と一線を画した新しい大学の姿を目指していたと言われており、安易な一高文化の継承には懐疑的だったのかもしれません。
翌1950年にはついに开催が认められ、念愿の第1回驹场祭が开催されます。しかし当时は骋贬蚕の占领下。一高纪念祭の名物でもあった「寮デコレーション」※1は骋贬蚕批判につながるおそれがあるとして禁止されました。日本が主権回復した1952年以降は寮デコレーションも公认され、新たに野外演剧や仮装行列も始まり、伝统のファイアストームなども含め、驹场生の青春の祭りとして発展、驹场の年中行事として定着していきました※2。
3学生运动の高まり
1960年顷から学生运动が高まりを见せ始め、驹场祭委员会でも目指すべきは反体制の驹场祭か青春祭の活动かという热い议论が交わされるようになります。1967年には佐藤栄作首相の访米阻止を目指す学生デモ队が驹场祭1日目を终えた夜の驹场に集まり、1号馆と900番教室を占拠しました。デモ队は驹场祭委员会の求めに応じて退去しましたが、构内でデモ行进をおこなって来场者を惊かせたといいます。この年、驹场祭委员会は「参加団体は大学への届出団体に限る」という従来の申し合わせを拒否し、参加団体を一任するよう求めました。大学はこれを认めず、学生と大学との信頼関係が崩れていきます。
翌1968年、东大纷争が拡大する中、教养学部でも学生が全面的な无期限ストライキに突入。驹场祭委员会と大学との交渉は决裂し、これを「胜手にやれ」という意味だと解釈した驹场祭委员会は、大学からの公认を得ないまま驹场祭を强行しました※3。
东大纷争の影响はついに入试の中止にまで至り、1969年は新入生が存在しない年でした。この年の驹场祭は主に2年生のみ、翌年は主に1年生のみによって担われたのです。
4模拟店の流行と大众化
激动の时代は、驹场祭の中身の面でも転换点でした。1969年、1号馆时计台の正面に特设舞台が初めて设置され、学生団体がパフォーマンスを披露する催しが企画されます。この企画の名称「グランドフェスティバル」がステージ自体の名称として定着し、特设ステージは驹场祭のシンボルになりました※5。
また、従来はクラスでテーマを决めて研究発表をしたり、サークルで活动成果を披露したりといった企画が中心でしたが、クラス企画で喫茶店が流行し始めたのを机に、1970年代に模拟店?喫茶店が急激に増加。近年の驹场祭の风物诗である屋外に立ち并ぶ模拟店の姿はこの顷その原型が形作られたのです。
5バブルの崩壊
长らく驹场祭の运営にかかる费用は、参加団体から徴収する参加费とパンフレットに掲载する公司からの広告収入からなり、特に后者に依存していました。平成に入ってバブルが崩壊すると、広告収入が急减し、驹场祭委员会は财政难に陥りました。そこで委员会は、参加费徴収に代え、新入生から运営费を一律で纳入してもらう仕组みを计画します。学生自治会などの同意を得て1993年に规约改正がなされ、翌年の入学生から段阶的に驹场祭运営费の一括纳入が始まりました。この制度は后に五月祭にも导入され※4、「一部有志が参加する行事」から「ほとんどの新入生が参加する行事」への転换にも役立ったといえます。
6新时代の萌芽
21世纪を迎える顷、新しい时代の学园祭の姿が见え始めました。驹场祭のウェブページが初めて作られたのは1997年。企画の参加登録が纸媒体での申请からウェブシステムによる登録になったのが2001年。2010年には驹场祭委员会が罢飞颈迟迟别谤での情报発信を始めます。驹场寮跡地の再开発が进み、キャンパスが大きく姿を変えた时代でもありました。2003年に委员会主催のオープニングやフィナーレが始まり、2006年から公式グッズが贩売されるなど、财政难からの脱却と委员人数の増加もあり様々な新しい取り组みがみられました。
7禁酒措置と火灾対策
2007年の麻疹の流行、2009年の新型インフルエンザ、2011年の东日本大震灾と、五月祭は何度も开催が危ぶまれ、乗り越えてきましたが、幸いにも驹场祭は开催を胁かされることなく2000年代を过ごしました。転机を迎えたのは2012年。この年から驹场祭が全面禁酒となりました。全国的に学园祭禁酒の动きが高まったことに加え、この前年に教养学部で発生した学生の饮酒死亡事故がきっかけになったと言われます。また、五月祭でのボヤ騒ぎや明治神宫外苑のイベントでの火灾死亡事故などの影响で、2016年顷からは火気使用の制限が大幅に厳しくなりました。
8コロナ祸と、これから
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、驹场祭はオンライン开催に。来场者のキャンパスへの来访は一切ありませんでした。远方で足を运べなかった方にもコンテンツを楽しんでもらえた一方で、银杏并木に模拟店が立ち并ぶ賑やかなキャンパスを见ることは叶いませんでした。模拟店企画は“全灭”となり、企画数は大幅に减少したものの、过去にない趣向を凝らしたクラス企画が现れ、サークル企画の活动成果発表も新しいツールを活用して多岐にわたるようになりました。
オンライン开催となった学园祭は、これまでの「场所」の概念から解放されました。キャンパスに来なくても、企画を楽しみ、出展することさえできたのです。もしかすると「本郷の五月祭/驹场の驹场祭」という构図自体が见直される日が来るのかもしれません。
※1 时事风刺を题材にした寮の部屋の装饰。
※2 1954年には、3日间の一般公开のための休讲を求める驹场祭委员会と教养学部との间で交渉が难航し、あわや中止となる直前で学生侧が折れる形で何とか开催に。この后、东大纷争以降は3日间の开催が定着しますが、その后も「準备と片づけのためにどれだけ休讲を设けるか」は大学と学生との交渉の争点であり続けました。
※3 この年のポスターに书かれた「とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている/男东大どこへ行く」が纷争のさなかにある东大生の心情を表すものとして全国的に有名になりました。
※4 五月祭は2008年以降は企画参加费制度に戻っています。
※5 この特设ステージは长く1号馆正面にありましたが、2004年に1号馆前からキャンパスプラザ东侧広场に移転。2019年には9号馆里に移転しました。
幻の第2回驹场祭パンフ
今号表纸に掲载した过去のパンフレット(プログラム)は驹场図书馆や文书馆柏分馆などに眠りますが、欠けもあります。1951年の第2回分のみ未発见。情报求む!
どうして11月开催?
驹场祭の前身となった纪念祭は、春入学となって以降は基本的に2月に开催されていました。驹场祭はなぜ11月なのか。理由は単纯で、第1回委员长の手记によれば「本郷の五月祭に配虑して5月と半年の间をあける案を採用した」とのこと。2つの学园祭が半年ごとに开催されるのは偶然ではなかったのです。以降、1969年に10月开催だったのが唯一の例外で、一贯して11月に开催されています。ちなみに五月祭は戦前からおこなわれていますが、5月以外に开催されたことがこれまでに3回あります。1972年に準备が遅れて6月开催となり、2003年には施设予约の都合で5月31日?6月1日の开催に。そして昨年の五月祭がコロナ祸による延期で9月の开催(オンライン)となっています。