东京大学の歴史を振り返ると、末尾に9が付く年に、大学の歴史を画するような大きな出来事が起こっていることに気が付きます。まず、半世纪前の1969年には东大纷争が起こり、1月には安田讲堂事件が起こっています。その20年前の1949年5月には、新制の东京大学が诞生し、教养学部と教育学部が设置されました。ここまでは、谁でも知っていることです。しかし、1世纪前の1919年が东京大学にとって重大な転机であったことを知る人は少ないようです。今から100年前、1919年の东大に何が起こったのか。东京大学特命教授で百五十年史编纂室员の佐藤愼一先生がまとめてくれました。室长の佐藤健二先生による现时点での百五十年史构想と合わせてご确认ください。
11969年と1949年と1919年
东京大学の年表を括ると、末尾に9の付く年に大学史を画するような大きな出来事が起こっていることに気が付く。
今から半世纪前の1969(昭和44)年には、1月18?19日に安田讲堂事件が起こっている。医学部の学生処分に端を発した东大纷争は、前年6月の大河内総长による警察力导入を机に全学规模の纷争に拡大し、10月には全ての学部が无期限ストに突入して东大から讲义が消えるという、前例のない事态が起こっていた。
その20年前の1949(昭和24)年には、5月31日に国立学校设置法が施行され、旧制の东京大学(1947年9月30日に校名を东京帝国大学から东京大学に変更)は一高および东京高校と合併して新制の东京大学となった。このとき教养学部、教育学部、生产技术研究所、新闻研究所が新设されている。
さらに30年を遡る1919(大正8)年―つまり今から1世纪前―の东京大学もまた、大きな転机に直面していた。2月7日には、东京帝国大学の设置根拠である帝国大学令が、1886(明治19)年の制定以来はじめて全面改正されている。帝国大学令の全面改正は、东京帝国大学のみならず、日本の高等教育のあり方に関わる大きな出来事であった。
西南戦争最中の1877(明治10)年4月12日に设置された东京大学は、1886(明治19)年3月2日に初代文部大臣の森有礼が行った帝国大学への改组を机に、近代的総合大学としての道を歩み始める。この帝国大学の设置根拠となったのが帝国大学令で、その第一条は帝国大学の设置目的を、「帝国大学ハ国家ノ须要ニ応スル学术技芸ヲ教授シ及其蕴奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と定めた。
帝国大学は、京都帝国大学设置に伴い1897(明治30)年6月に校名を东京帝国大学に変更する。本稿では帝国大学时代も含めて东京帝国大学と呼ぶことにするが、东京帝国大学は大学院および分科大学(発足时は法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学の5分科大学。1890(明治23)年6月に农科大学を加える)で构成される分科大学の连合体で、各分科大学に学长を置き、帝国大学全体を束ねる役职として総长を置いた。初代総长には东京府知事だった渡辺洪基が任命されている。
1919(大正8)年2月7日に全文改正された帝国大学令により、分科大学制は学部制に改められ(分科大学学长は学部长となった)、7番目の学部として経済学部が设置された。改正帝国大学令の第一条は、「帝国大学ハ数个ノ学部ヲ综合シテ之ヲ构成ス」に改められ、帝国大学の目的を定めたあの第一条がなくなっている。このような変化がなぜ1919年に起こったのだろうか?
2帝国大学令と大学令
帝国大学令改正の意味は、直前の1918(大正7)年12月6日に公布された大学令とセットで考える必要がある。
大学令制定以前、日本に大学は5つしかなかった。帝国大学令に基づいて设置された5つの帝国大学(东京、京都、东北、九州、北海道)である。早稲田や庆応など一部の私学は大学を名乗ることを许されていたが、制度的には専门学校令に基づく専门学校で、大学昇格を强く希望していた。产业化や都市化の进展に伴って高等教育を受けることを希望する若者は次第に増え、大正期に入ると学制改革や高等教育拡充を求める世论は强まった。慢性的财政难で高等教育拡充に消极的だった政府も、第一次大戦の好景気がもたらした税収入の増大を背景にようやく重い腰をあげ、1917(大正6)年9月、首相直属の諮问机関である临时教育会议を设置して、小学校から大学に至る教育课程全般の见直しに着手した。大学令の制定と帝国大学令の全面改定は、临时教育会议の答申の产物である。
大学令は、官立大学に加えて新たに公立(道府県立)大学および私立大学の设置を认め、また総合大学に加えて新たに単科大学の设置も认めた。その结果、1920(大正9)年2月には私立大学の先阵を切って庆応义塾大学と早稲田大学が正式な大学に昇格し、また同年7月には官立単科大学の先阵を切って东京商科大学(现一桥大学)が诞生している。以后大学の数は顺次増加し、帝国大学も京城帝国大学(1924年设置)、台北帝国大学(1928年设置)、大阪帝国大学(1931年设置)、名古屋帝国大学(1939年设置)の4校が増设されている。
问题は大学令と帝国大学令の関係で、大学令は帝国大学を含む大学全般に当てはまる一般的な法令であり、帝国大学令は帝国大学のみに当てはまる特殊な法令であると整理された。その结果、大学令は第一条で大学の目的を「大学ハ国家ニ须要ナル学术ノ理论及応用ヲ教授シ并其ノ蕴奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵养ニ留意スヘキモノトス」と定め、帝国大学令から大学の目的に関する规定は消えた。また、帝国大学が分科大学制を廃止して学部制を导入したのは、大学令が第二条で「大学ニハ数个ノ学部ヲ置クヲ常例トス」と规定したためである。
3山川健次郎総长と东大改革
1919年当时の东京帝国大学総长は山川健次郎(1854-1931)だった。会津藩白虎队士だった彼は、黒田清隆の支援を得てイェール大学で学び、帰国后1879(明治12)年に东京大学教授(物理学)となり、1901(明治34)年6月に东京帝国大学総长(第6代)に就任したが(当时の総长は官选)、日露讲和交渉の过程で起こった戸水事件の责任を取って1905(明治38)年12月に辞任している。その后、1911(明治44)年に设立された九州帝国大学の初代総长を务めた后、1913(大正2)年5月に再び东京帝国大学総长(第9代)に就任していた。2期合计の総长在任期间は11年10ヵ月に及び、歴代最长记録である。
临时教育会议の委员であった山川は、1918(大正7)年3月、评议会のもとに自らを委员长とする帝国大学制度调査委员会を设置して东京帝国大学の教育改革に着手し、多くの成果を挙げた。学年学级制を科目制に改めたことは重要な成果のひとつで、それまでは各学年で履修すべき科目が定められ、1科目でも落第すれば进级できず、翌年全ての科目を履修し直さなくてはならなかったものを、科目制を採用して学生の履修科目选択の自由度を高め、受动的だった学生の受讲态度を能动的なものに転换しようとした。山川は卒业式も廃止し、これに伴い优等生に与えられる恩赐の银时计制度も廃止されている。
山川が力を入れたのは、総长公选制を导入し、総长の选出を官选から东京帝国大学教授団による选挙に改めることであった。京都帝国大学では1913(大正2)年から翌年にかけて、官选の沢柳政太郎総长と教授団が教官人事をめぐって激しく対立する沢柳事件が起こり、山川は辞任した沢柳の后任として1914(大正3)年8月から翌年6月まで京都帝国大学総长を兼务する。京都帝国大学総长辞任に际して、山川は教授会の意见を十分に徴したうえで、京都帝国大学医科大学学长だった荒木寅叁郎を后任の総长として文部大臣に推挙し、それに基づいて荒木総长が実现した。これが帝国大学総长公选の事実上の开始と言われる。山川は、自らが京都帝国大学で始めたこの新たな试みを、东京帝国大学において、より完全で持続的な制度に仕上げようとした。
东京帝国大学评议会は、「総长の任命は推荐により専任とすること」「総长は教授全体にて直接选挙とすること」「総长任期を5年とすること」を柱とする决议を行い、1919(大正8)年7月8日开催の评议会において、総长公选制の导入を内容とする総长候补者选挙内规を制定した。上申されたこの内规に文部省は异议を唱えず、黙示の承认を与えた。1919年12月2日、この内规に基づく最初の総长选挙が実施された。协议会(各学部教授会から3名ずつ选ばれた协议员の组织)が予め选出した3名の候补者(学外者でも差し支えないとされた)について、全ての教授が无记名投票を行い(助教授には投票権はなかった)、现総长の山川健次郎が东京大学史上初の公选総长として选出された。ちなみに山川の胸像は理学部1号馆前広场に置かれている。
41919年から1949年、そして1969年へ
大学令と改正帝国大学令は、改正高等学校令などと共に1919年4月1日に施行された。「新制」と対比される「旧制」の教育体系とは、1919年に始まるこの教育体系を指す。个别の勅令の积み重ねで作られた旧制の教育体系は、中等教育の段阶でも高等教育の段阶でも多様な学校种が混在し、モザイクのように复雑な构造を持っていた。旧制から新制への転换の最大の课题は、その复雑な构造を、小学校6年+中学校3年+高等学校3年+大学4年というシンプルで一元的な构造に改造することで、短期间で构造転换を行うためには相当な无理も行わざるを得なかった。1949年に行われた新制大学への移行では、国立大学の场合、东京や大阪、北海道などの大规模都道府県を除いて「一県一大学」原则が适用され、県内にある全ての官立高等教育机関(帝国大学、大学、高等师范学校、师范学校、専门学校、高等学校など)を统合して地方国立大学が诞生した。
この新制への転换の过程で、东京大学のように旧制の段阶から大学自治の惯行を持つ大学では、管理运営の仕组みに殆ど変化は起こっていない。旧制由来の総长という名称を使い続けたことに象徴されるように、大学管理运営の仕组みについて、东京帝国大学と新制东京大学はきわめて连続的である。
新制东京大学が大きく変わるのは1960年代のことである。高度経済成长に伴う理工系ブームと进学热の高まりで、工学部を中心に学科と讲座の増设が相次ぎ、入学定员は2000人(1958年)から3000人(1968年)へと急増し、キャンパスは过密状态となる。そして、急速にマス化した东京大学を、东京帝国大学由来の古い管理运営体制が支えきれなくなったときに爆発したのが、1969年の东大纷争であった。
きたる百五十年史编纂に向けて
テーマ史も加えて読める年史に
百年史の编纂では、準备期间が约10年ありました。百五十年史でも同様の想定が必要だろうと、2016年度にワーキンググループ※1が発足しました。必要な準备を検讨し、総长に答申する役割です。2018年度にはこれを本部组织にすることが决まり、今年4月に编纂室※2が発足しました。百五十年史の内容の検讨と、编纂のための资料の収集?整理が任务です。
1977~87年に刊行された百年史※3は、全10巻もの大セットで手軽に読めるものではありませんでしたが、今回は大学の通史を3册程度にまとめる予定です。百年史で4巻あった部局史は最小限に収めるというイメージです。
そのかわり新しく加えたいのが、テーマ史です。発明?発见史、キャンパス史、财政史、学生生活史、学生运动史などなど、大学の活动をテーマごとに绍介する企画を検讨中です。
私は以前、日立の社史を调べたことがあります。その际、鉱山から始まる一公司の歴史が、社会の発展と密接に繋がることに気づきました。掘削技术を磨くことから机械部门が発达、坑内の昇降のためにエレベーター事业が発达、鉱物の输送のために鉄道が発达、全体を统括するためにコンピュータが発达……。鉱山の仕事をベースに様々な事业が発展し、それが日本社会全体を変革していきます。
同様のことは东大史にもあるはずです。150年に及ぶ研究?教育活动と社会との関係を示せれば、社会を駆动する大学であることの証になるでしょう。これを学问を志す若者が読めるコンテンツにしたい。百年史では膨大な资料を载せるために厚みが増した面もありますが、现在では膨大な资料をデジタルアーカイブズとして公开できます。家の调度品ではない、読める本を目指したい。
今年度中には构成の大枠を决め、五神総长の任期中に基本的な体制づくりを进めるつもりです。各部局との相谈を进め、全学的な体制の基础をしっかり整えて次に繋ぐのが、室长の役割だと思っています。
- ※1 奥骋の座长は中嶋康博先生(农学生命科学研究科)
- ※2 工学部5号馆にある编纂室では、1977~85年に百年史编集室员だった照沼康孝さんをはじめとするスタッフが作业を进めています
- ※3 通史3巻、资料3巻、部局史4巻の全10巻で构成された百年史