
东京大学の新しい国际宿舎が诞生しました。国际宿舎というだけにとどまらず、产学协创拠点、地域连携拠点の机能を併せ持つ新时代の复合施设です。8月28日には完成记念式典と内覧会を开催し、110人を超える内外の関係者が参加しました。当日公开された施设の様子と、当地でかつて地域医疗の场として爱された分院の歴史を振り返りながら、期待の新施设の船出を祝います。

インクルーシブ?グロースを実践する场
目白台インターナショナルビレッジは、地域で104年間も親しまれてきた分院の精神を現代風に更新しながら受け継いでいく複合施設です。多様な属性を持つ約1000人の学生?研究者が暮らす国際宿舎という特色を活かし、入居者と起業家や産業界の精鋭が国際的な協創を進めるインキュベーション支援施設が併設されています。従来の大学施設では類を見ない国際宿舎と産学協創拠点の融合が実現しました。分院が培ってきた地域との縁を活かし、地域からのイノベーションを牽引する場になる。ベンチャーから大企業まで多彩な企業との協創で新たな価値を生み、インクルーシブ?グロース(Inclusive Growth)の実践拠点になる。ビレッジにはそんな期待がこめられています。
一つのヒントになるのは、多くの人々が暮らす中で生じる様々な情报が新しいサービスにつながる可能性があるという発想。ビレッジは、データ駆动型社会に向けたイノベーションを地域とともに起こすためのフィールドとなり得ます。
またビレッジは、分院が長い間育んできた地域とのつながりがもたらす価値を理解し、それを未来社会に向けて展開したものだともいえます。SAKURA SQUAREは24時間開放されています。将来のインクルーシブ?グロースの拡張スペースである西側広場は、分院時代の面影を色濃く残しています。敷地内のレストランは、分院の食堂がそうだったように、地域の皆さんも利用することができます。守衛所だった建物は分院の記憶をつなぐ展示スペースとなりました。
ビレッジは、知识集约型社会のなかで东大が何に贡献していくかを确かめる実践の场としての机能を备えています。最先端の知の创造の场で、様々な学生?研究者が日々生活します。855室の部屋と1000人もの「知のプロフェッショナル」とその卵たちは、新しい挑戦を始める公司や人にとって大きな価値となることでしょう。知识集约型社会における大学の未来地図を提示するのには絶好の施设が、本郷から近い最高の地に诞生したのです。

1&谤补谤谤;アントレプレナービレッジに用意された会议室は3室。ガラス张りの壁に囲まれた室内からは西侧の広场が一望でき、议论停滞时の気分転换になりそう。
2&谤补谤谤;コワーキングスペースには様々なデザインの椅子やライトが。内覧会ではタマゴ型のやわらかい椅子に座って感触を确かめる人が続出していました。
3&谤补谤谤;コワーキングスペースの隣には一段低い大空间が。通常时はラーニングコモンズに、イベント时にはホールになります。记念式典はここで行われました。
4→分院名物だった桜に由来するSAKURA SQUAREは、24時間地域に開かれたスペース。昔のように、向かいにある幼稚園の子どもたちにとってもよい散歩スポットになるでしょう。
↑1階DINING HALLのイメージ。併設の大型キッチンで居住者が出身国の料理を振る舞って盛り上がったりするのにも最適な多目的スペースです。
5&谤补谤谤;1阶ラウンジには、水道付きのカウンター&スツールや备え付けの本棚が。各入居者が推荐図书を置いて贷し借りする「目白台文库」出现の日は近い?
6→施設中央に広がるのはSHIRAKASHI DECKの名を持つウッドデッキ。腐食しにくい材を使用しています。階段でつながる2階の東側にはソファセットが。
7→SAKURA SQUAREの隣には、日本の食文化をレストランとショップとカフェで発信するVILLAGE MARCHEとファミマが。ロボット職人が握る寿司に注目を!
シェア型住戸の构成
1ブロックは20程度の个室+コモンで构成。そのブロックが35以上あり、シェア型住戸は全704室を数えます。151室の独立型住戸を合わせると合计855室となります
国际学生宿舎?ロッジの用途を再编
目白台インターナショナルビレッジの新设に伴い、东大の国际学生宿舎?ロッジの用途の见直しを行いました。白金台ロッジ(119室)は廃止とし、そのうち単身室58と夫妇室41は目白台へ移行。追分インターナショナルハウス(215室)は研究者用に用途を変更し、150室枠は豊岛国际学生宿舎叠栋へ、豊岛叠栋の150室枠は目白台へ移りました。6月时点で合计1964だった戸数は现在では2700に増えています。
设计者に闻きました
生产技术研究所教授 今井公太郎
千叶 学 工学系研究科教授
日常生活の延长线上に新しい関係や新たな知が生まれる拠点にしたい、という思いは当初から持っていました。そこに総长のリーダーシップが加わり、产学协创の机能を併せ持つ场という构想に至りました。また、この地には附属病院分院が地域密着の活动を育んできた歴史があり、东大と地域の连携を深める场としての位置づけも欠かせません。大学のもう一つのキャンパスとして人々の交流から新しい知を创造していく场と捉えました。
重视したのはコモンスペースです。学生同士、学生と地域、学生と公司。様々な交流の场を异なるスケールのコモンという形で実现しようと考えました。复数の栋の合间にコモンスペースを多数设え、人々が自由に交流できるようにしました。
施设を长く使うためにフレキシビリティも意识しました。エレベーター?阶段、トイレ?ランドリーを拥するコア部分で全体を缓やかに分节し、ブロック构成としています。男女を阶ごとに分ける、ゾーンごとに分けるなど、柔软な対応が可能です。1ブロック20室とした个室部分は小さめですが、部屋を出れば広々とした共用のリビングやキッチン、勉强スペースなどが自由に使えます。
产学协创施设は「目白台アントレプレナービレッジ」と名付けています。东大と公司との交流、スタートアップ支援の拠点です。国际宿舎に住む贵重な人材约1000人の潜在能力を活かすような开かれた场として设计しました。ラボゾーンには、15~45平米の高天井ラボスペースが15室。入居公司を选定し、必要に応じて使ってもらいます。コワーキングスペースは、打ち合わせや书类作成など、ラボ入居者が自由に使える场所。ガラス张りの会议室も连続した空间内に配置し、互いに颜が见える形で协业ができます。キッチン、リクライニングスペース、喫茶スペースも用意しています。ラーニングコモンズのフロアは、最大140席を配置し、セミナー、ワークショップ、シンポジウムなど多様な使い方ができます。入口から続くフロア横はギャラリーとしても使えます。有机的な产学协创拠点として、イノベーションエコシステムを创出し、価値创造を推进する场となることを愿います。
分院104年の歴史が息づく西侧広场






8ビレッジの西側は地域の皆さんにも開放されたエリアです。分院百周年の際に建立された記念碑はもちろん、「學」の刻印がある消火栓、駐車禁止の看板、レンガ積みの基礎、水飲み場の跡、石段など、分院時代の遺物が意識的に随所に残っているのが特徴。SAKURA GATE近くのヒマラヤスギや、大きなユリノキにめりこんだガードレールも、昔の姿をとどめています。エリア内に敷設の散歩道に使われているウッドチップは、施設建設で伐採した樹木が素材。「上を歩くだけで分院の歴史を踏みしめる気分がするニャー。でも、道から外れて数々の遺物を探し歩いたほうが、よりディープなタイムスリップ気分が堪能できるんだニャー」。KEYAKI GATE辺りに暮らす地域猫からの伝言です。
分院104 年の歴史が覗ける旧守衛所
9かつて守卫所だった建物が分院の歴史を伝える展示の场に。分院とオリンパスが世界で初めて完成させた胃カメラの初期型のほか、胃カメラ开発の物语を绍介する映像、分院の歴史を记す铭板、分院野球部一同が残したボールも眺められます。表札はありませんが、门柱と分院の精神はなお健在です。
附属病院分院、最后の分院长に闻きました

信州大学特别特任教授
私が分院に来たのは1988年です。それまでは筑波大学にいましたが、分院长?内科长だった尾形悦郎先生からお声がけいただき、第四内科に入局しました。いわゆる「ナンバー内科」の时代です。
すでに当时、统合は既定路线でした。各地の医学部附属病院分院の见直しが国主导で行われたのです。でも、分院に爱着を持つ人は数多く、残す方法はないのか、と各科から声が上がりました。私自身ももちろん残したかった。助教授となり、分院百周年记念事业の実行委员长を务めた私は、外科の教授だった大原毅先生とともに、存続の道を模索したんです。
トータルケアは分院の伝统の一つ
その一つが、本院は先端医疗を行い、分院はトータルケアを行うという役割の再定义でした。部位ごとに别科で治疗するのが普通ですが、そうせずに患者さんごと総合的治疗を行うというアプローチです。贫しい人を公费で治す施疗院(永楽病院)を源とする分院らしいやり方が実は现代に求められていると考えました。
もう一つ説得材料と考えたのは、分院生まれの胃カメラです。宇治达郎先生がオリンパスの技师とともに努力を重ね、世界に先駆けて开発した胃内撮影机は、ファイバースコープ、内视镜へとつながり、医疗は飞跃的に発展しました。そんなノーベル赏级の研究が行われた现场を失うのは社会の损失だ、と诉えたのです。
残念ながら国の方针を変えることは叶いませんでした。统合は正式には2001年4月ですが、実际はその1年ほど前に、分院のスタッフも患者さんも本院に移転。私は肾臓?内分泌内科教授として治疗と研究?教育を行いました。东大を皮切りに、全国の大学附属病院がナンバー内科から臓器别の科编成に変わりました。
ただ、この运动によって分院内の结びつきはより强まったと思います。本院の半分程度の规模で、全员が颜见知り。「家族的な病院」とよく言われたものです。年末には「目白台亲睦会」という宴を开き、科长阵が练习を积んで芸を披露(?)するのが常でした。春は正门近くの桜(?)の前で记念撮影。夏は中庭でビアパーティー。12月には向かいの幼稚园の皆様を招いてカードを赠り、お礼に园児たちがクリスマスキャロルを歌ってくれました。地元の警察署や消防署との交流も盛んで地域に密着した病院でした。
だからこそ、地域の皆さんへの説明会に临むのは心苦しかった。纠弾されるかも、と思いました。でも、分院が好きで、存続の道を探って运动したことを打ち明けると、「あなたがそう言うなら仕方ない」と言っていただけました。
科长会の选挙で最后の分院长に选ばれた际には、分院を残そうという気持ちはもうなく、21世纪の东大病院を作るんだという思いでした。一方で、分院の仲间たちは新しい环境に顺応してしっかりとその実力を発挥してくれるだろうか、という心配もありました。この4月に瀬戸泰之先生が病院长になると闻いたときはうれしかったですね。実は彼も分院时代の仲间の一人なんです。



※昔の分院関係の写真は全て『东京大学医学部附属病院分院のあゆみ』(分院闭院记念事业実行委员会/平成13年3月発行)より

地域密着と多様性の精神を継ぐ场
その后、跡地の行方が気になりつつ、目白台に来ることはありませんでした。1年半ほど前にたまたまクルマで前を通った际は、工事中でまだ门がありました。东大が跡地を手放さず、今回、留学生などが居住する施设ができたのは非常にうれしいことです。大学にとって留学生の存在は重要だと思います。アメリカにいた顷、いろいろな国から来た留学生から多様な意见を闻くことの重要さを実感しました。余谈ですが、30数年前、东大出身でない私に尾形先生が声をかけてくれたのは、分院をヘテロな组织にしたいという思いがあったからだったそうです。
いま、私は先端研で研究を続ける一方で、信州大学にも通っています。地域医疗の活性化という大仕事を引き受けたのには、分院时代の経験とそこで培った精神が関係しているように感じています。