精神分析とフランス思想を研究する原先生が机构长を务めるの国际连携部门では、毎回设定されるテーマを多分野の研究者が讲じるシリーズを、南京大学と教养学部で开催してきました。
ここではに注目。発达と排泄の関係について论じた讲演の内容を绍介します。
精神分析学&迟颈尘别蝉;排泄
人の発达における排泄
身体を介した他者との関係
原和之
HARA Kazuyuki
総合文化研究科 教授
精神分析学には、人间がその発达の初期に、自分では満たすことのできない身体的な欲求を介して他者との间に异なった関係性を筑いてゆくという考え方(リビドー発达论)があります。そこでは生まれてすぐの时期、まず生命维持に不可欠な摂食の欲求がクローズアップされる「口唇期」に続いて、排泄の训练が问题になる时期に、いわゆる「肛门期」が想定されています。フロイトが大まかに分けたこれらの段阶を、弟子のカール?アブラハムはさらにそれぞれ二つに分けました。これはのちにジャック?ラカンが指摘したような、人间の欲望の二つのレベル、「欲求」と「要求」の鬩ぎあいから理解できます。
粪便は他者への赠り物
肛门期において问题となるのはまず、排泄そのものに伴う身体的な「欲求」の充足です。ただこの充足は、やはり発达の初期を通じて醸成されてきたもう一つの欲望、世话をしてくれる他者がそばにいてくれることの安心の追求、すなわち他者への「要求」と背驰します。というのも排泄の世话が终わればその他者はどこかへ行ってしまうからです。
肛门期の二番目の段阶では従って、排泄のコントロールが问题になります。亲に言われるがまま出すのではなく、粪便を体内に保持した上で、自分の好きな时に出すということです。フロイトは粪便を、子供が他者にできる最初の赠り物だと考えていましたが、これは别の言い方をすれば、「要求」のレベルで问题になる、他者の现前に自ら働きかける手段ということでもあります。欲求の満足という点で他者を必要とする点に変わりはありませんが、しかしその依存の上に主体的な领域が确保されるという、この「肛门期」の过程は、「自立」の意味をあらためて考える手がかりになるように思います。
排泄から见た精神分析学
フロイトは人间のこころを、刺激によって紧张した状态を不快と感じ、その刺激がなくなって紧张から解放されることを快と感じる、「快原理」によって説明しました。そのさい彼は、これを刺激を介して神経系に流れ込みやがて放出されるエネルギーの比喩で语るわけですが、このときフロイトが想定している快?不快のメカニズムは、すぐれて排泄をモデルにしているように思われます。その意味で排泄は、「快原理」を、そしてそれを根本原理とする精神分析学を见通す视点を与えてくれると言えるかもしれません。
身体の问题を解决するのに他者の手を借りる必要がない、「自立」した人、「自分で自分の尻を拭ける」人は、しばしば一种の理想として、「発达」の到达点に据えられてきました。ただその到达点でも问题の完全な解决は困难であることを、「欲求」と「要求」の二律背反は教えています。加えてそれが决して最终的な到达点たりえないこともまた、高齢化の进む现代では明らかになっています。ここには「自立」を夸っていたわれわれが、徐々に身体の问题の解决に人の手を借りることが必要になったときの「こころ」の変化を考える、「発达」论ならぬ「衰退」论を展开する余地があるように思います。
第1回 | 発达のなかの「排泄」 | 原和之 |
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第2回 | 社会人类学の视点から见た「排泄」 | 森山工 |
第3回 | 生物の排泄物 | 清家弘治 |
第4回 | 排泄物の顿狈础情报 | 服部正平 |
第5回 | 廃弃物管理の経済学 | 横尾英史 |
第6回 | 排泄コミュニケーション | 菊水健史 |
第7回 | 水洗トイレ~水システムの中の排泄设备~ | 前田裕子 |
第8回 | 都市水代谢における排泄と再生 | 古米弘明 |
第9回 | ベッド上で生活する高齢者の支援 | 仲上豪二朗 |
第10回 | Body, Mind, World. | ジョン?オデイ |
第11回 | 日本における文书の廃弃と再利用 | 渡邉正男 |
第12回 | 近世都市江戸の廃弃と再利用システム | 堀内秀树 |
第13回 | スラムにおける排泄 | 中西彻 |
2013年12月には、「近现代东アジアにおける排泄?健康?环境」(福士由纪)、「中国映画における排泄」(刈间文俊)と题するも。后者では、中国映画『红いコーリャン』(张芸谋监督、1987年)に登场する、酒に小便を入れたら旨い酒ができたというシーンが取り上げられました。