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溶姫御殿のトイレから発见された高浓度の铅の正体とは?|堀内秀树 东大の排泄関连研究(7)

掲载日:2024年5月14日

长年にわたり东大キャンパスの発掘调査を担当してきた堀内先生。
本郷キャンパスを歩くと江戸时代の加贺藩の大名屋敷が「见える」と话します。
溶姫御殿があった场所から出土した便所遗构や、赤门脇の加贺藩邸地境石组沟などについて绍介してもらいました。

考古学&迟颈尘别蝉;便所

溶姫御殿のトイレから発见された高浓度の铅の正体とは?

堀内秀树
HORIUCHI Hideki

埋蔵文化財調査室 准教授

堀内秀树

1983年に立ち上がった埋蔵文化财调査室で、约40年にわたって学内の発掘调査を担当してきました。江戸时代に加贺藩の江戸屋敷が置かれていた本郷キャンパス。建物の改修や建设の度に学内各所で行われてきた発掘调査によって、その広壮な加贺藩邸の姿が明らかになってきました。

総合図書館前広場から発掘された便所遺構。
総合図书馆前広场から発掘された便所遗构。深さは30~40センチ。

女中エリアの便所遗构から铅が

本郷キャンパス発掘地点マップ
本郷キャンパス発掘地点マップより

2013~14年に総合図书馆前広场(アカデミックコモンズ地点)の工事に伴い行った発掘调査では、井戸、排水沟、便所の遗构が発掘されました。1827年に第11代将军徳川家斉の二十一女?溶姫が、前田家13代斉泰に嫁いだ时に建てられた溶姫御殿の最奥部にあたる场所です。

御殿の正门である赤门から奥に広がる约5,200坪の広大な御殿でした。特に长局ながつぼねは、大奥と同じレイアウトで、その「三ノ側长局」、「三ノ側続长局」という女中が居住していたエリアから5基の便所が出土しました。土を掘り、その中に木桶を埋める構造でした。便槽は2基が対になっていて、その構造は大便と小便用のものが1基ずつ設置されていた男性の行動圏にある便所とは異なる点です。

便槽の下层から発见されたのが、便に含まれるカルシウム分が沉淀して白色化した土。土壌分析したところ、铅が多く含有されていました。铅は汚染していない土にも一定量含まれていますが、白色化した土壌の铅の浓度は通常の3~4倍。これは白粉おしろいに含まれていた铅が体内に取り込まれ、排出されたためだと推定されます。

1986~88年に行われた御殿下记念馆地点の発掘调査でも、女性用便所から铅を多く含有した土壌が报告されています。铅を含む白粉は、江戸时代に乳幼児死亡率が高かった原因だという指摘もあります。当时は白粉を首の下まで涂っていたので、子供を抱いたときにそこを舐めてしまったのかもしれません。その影响は大人より大きいため、铅中毒によって亡くなる乳児がいたのではないかと考えています。

江戸时代の贵重な一次资料

全域が遗跡指定されている本郷キャンパスの地面の下には、遗跡化した加贺藩邸が非常に良好な状态で眠っています。これまで歴史的资料性が高い遗构や遗物がたくさん出土しました。博物馆学でいうと一次资料、标本そのもの。40年で蓄积した知见は膨大で、江戸时代初めから终わりまでの大名や藩士としての活动や生活スタイルを復元できる。そういう象徴的な遗跡です。

最近では、2023年に赤门付近の発掘调査で溶姫御殿の加贺藩邸地境石组沟が発见されました。沟幅は内法约1尘。加贺藩邸の他の石组地境沟の约2倍です。沟底には漆喰しっくいが贴りつめられ、石垣に使う石が綺丽に并べられていました。中山道なかせんどう(现本郷通り)に面した溶姫御殿の藩邸境ということで、非常に丁寧に作られていたことが分かります。

私たちが取り组んできた発掘调査のテーマは、江戸时代とはどういう时代だったのか、どういう地域だったのか、加贺藩邸はどのような场所だったのか、という3点です。ですが、まだ调べていない资料などがたくさんあります。今后はそこに踏み込んでいきたいです。images

赤門脇トイレ建設に伴う発掘調査によって発見された溶姫御殿の加賀藩邸地境石組溝
赤门脇トイレ建设に伴う発掘调査によって発见された溶姫御殿の加贺藩邸地境石组沟。加贺藩邸を囲んでいた他の石组沟よりも沟幅も大きく豪华な造りです。2023年10月に行われた见学会には数百人が参加しました。
溶姫御殿から出土した色絵角形段重
溶姫御殿から出土した色絵角形段重。四面の窓絵には、それぞれ四季の花が描かれています。
『赤门 溶姫御殿から东京大学へ』(东京大学出版会/2017年)
(东京大学出版会/2017年)
2017年に开催された総合研究博物馆特别展示「赤门溶姫御殿から东京大学へ」の図録の市贩版。堀内先生と西秋良宏先生が编集を务めました。

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