ロシアのウクライナ侵攻の背景を読み解く
ロシアがウクライナに侵攻してから约1か月。ロシア军による攻撃が続き、民间人の被害が広がっています。ロシアが军事侵攻に踏み切った背景に何があるのか。これまでの二国间関係、プーチン大统领の「ネオナチ」発言などについて、歴史社会学の観点からロシア?ユダヤ史やナショナリズム论などを研究し、教养学部でロシア?ウクライナ関係についても讲じてきた鹤见太郎准教授に话を闻きました。
―― これまでのウクライナとロシアとの関係について教えてください。
ウクライナとロシアとの関係は、必ずしも全貌が明らかではないキエフ?ルーシ(9~13世纪、ロシア人とウクライナ人、ベラルーシ人の共通の起源とされる)の时代を别にすると、ロシア帝国の时代にさかのぼります。
现在のウクライナの大部分はそれまでポーランド?リトアニア王国の领域でしたが、东部地域は17世纪にロシアの支配下に入ります。18世纪末のポーランド分割の际には、中部地域がエカテリーナ2世治世のロシアに、西部はハプスブルク家のオーストリアに併合されました。南下政策を进めるロシアは、オスマン帝国からクリミア半岛も获得します。それらロシア帝国に组み込まれた地域は政府主导で开発が推进され、东部では工业化が进み、鉄钢业などが発展していきました。ソ连が成立すると、ウクライナはその一共和国となり、西部地域も组み込んで现在の国境が确定しました。
今でもウクライナの西部は农业が中心で、东部は工业が盛んです。私たちのヨーロッパのイメージでは、西に行くほど豊かという印象があると思いますが、ウクライナの场合は东のほうが稼ぎ头で、かつロシアとの结びつきが强い。言语も、东部はロシア语の通用度がかなり高く、本来ロシアに対して心情的には亲和的でした。ウクライナ全体としても、2014年のロシアによるクリミア併合までは、决して敌対的ではありませんでした。调査によって変动はありますが、狈础罢翱加盟に関して前向きな国民も、2014年以前はせいぜい3割程度でした。
経済においてもロシアとの関係は非常に重要で、独立以来、2014年を転机に依存度が低下するまで输出入ではロシアがずっと1位。ロシア资本もかなり入っています。ウクライナの1人当たりの骋顿笔はロシアの3分の1にすぎず、あえてロシアと敌対する动机をウクライナは持たないわけです。
一方でアイデンティティに関しては、1991年の独立以来、「ウクライナ」という単位で考える人が増えています。ソ连では血縁に基づく民族の意识がアイデンティティの基础になっていて、ウクライナの人口の2割前后を占めるロシア人は必ずしもウクライナ人意识を持っていませんでしたが、独立后のウクライナでは、特に若い世代で、どの国で生まれたかがアイデンティティの重要な要素になってきました。1990年代の调査でも、东部のロシア系住民であってもウクライナ人としての意识を持っていて、西部とあまり変わらないことがわかっています。2014年以降、ウクライナのロシア系住民のあいだで、むしろウクライナ人としての意识を强めている人が増えているという调査结果もあります。社会の実情は、キエフ?ルーシの时代にさかのぼって同民族であることを强调するプーチン大统领の理解とは、かなり乖离しています。
クリミア併合が决定づけた亲贰鲍路线
―― ウクライナが贰鲍寄りになった背景は何でしょうか?
1991年の独立后、ウクライナでは亲ロシア派と亲贰鲍派が交互に政権交代してきました。2004年には「オレンジ革命」という民主革命で亲贰鲍派の大统领が诞生し、それに対しロシアはウクライナ向けの天然ガス供给を止めるなどして圧力をかけました。
すると、ロシアと不仲になるのはやはりよくないということで、次はロシア寄りのヤヌコビッチが当选した。そういうジグザグを続けていたので、ロシアからすると何かの拍子に贰鲍寄りになるのではないかという警戒心を常に持っていました。
はたせるかな、2014年のユーロマイダン革命と呼ばれる政変でヤヌコビッチが政権を追われ、ウクライナは一気に贰鲍寄りに倾きました。そこで危机感を持ったロシアが介入し、强引にクリミアを併合したため、ウクライナとの関係は后戻りできないほどに伤ついてしまった。このときを境に、狈础罢翱加盟に前向きな国民も年々少しずつ増えてきました。贰鲍の経済的魅力がもともとあったにしても、まさにロシアの行动やあり方を见て、ウクライナ人は最终的に贰鲍寄りになっていったといえます。
大统领选でも、それまではロシア寄りと贰鲍寄りの一骑打ちになる倾向が强かったのですが、2014年以降の选挙では、亲贰鲍であることは大前提になりました。その意味では、2019年の大统领选は初めて国内问题がもっぱら争点になった选挙といえ、ウクライナ国内の汚职克服などへの期待から现大统领のゼレンスキーが当选しました。
チェチェン纷争の経験と「强いロシア」
―― プーチン大统领はなぜ侵攻に踏み切ったのでしょうか。
ストレートに言うと、ウクライナをロシア侧につけるため、ということに尽きると思います。狈础罢翱东方拡大に危机感を持ったとか、ソ连ないしロシア帝国の復活への野望はあるでしょうが、それが现実的にできると误认したことも重要です。
プーチン大统领のイメージにあったのは、恐らくチェチェン纷争です。ソ连崩壊后、ロシア连邦として组み込まれるはずだったチェチェン共和国が1991年に独立を宣言し、阻止しようとするロシアとのあいだで武力衝突に至りました。1994年に始まった1回目は制圧に失败しましたが、2回目は1999年にプーチンが指挥を执ってから力でねじ伏せました。これによってチェチェンの姿势が180度変わり、今では亲プーチンのカディロフが首长です。力を行使すれば同じようなことがウクライナでもできる、ということを考えていたのではないでしょうか。
チェチェン人はムスリムですし、昔からロシアと折り合いが悪かったので抵抗が激しかったのですが、ウクライナ人はロシアを歓迎してくれるはず、とプーチンは本気で思い込んでいたのだろうと思います。
チェチェンは现在もロシア连邦の中で一番贫しい共和国の一つで、人口も100万くらい。しかし、ウクライナは人口も面积もその约40倍です。チェチェンでさえ第二次纷争の収束に10年くらいかかったので、チェチェン并みに抵抗があれば、とても数日のうちに制圧できるはずがない。恐らく、かなり甘い见込みで侵攻したのだと思います。
―― プーチン大统领が掲げる「强いロシア」はなぜ支持されてきたのでしょうか。
1991年のソ连崩壊后、90年代のロシアは経済的に非常に苦しく、西侧の支援がどうしても必要でした。その支援は今から思えば失败で、今日までいろいろな形で尾を引いています。一言でいうと、全部民営化して市场に任せてしまえばうまくいく、という発想でロシア経済の体制転换を进めたことです。今まで国営公司で上からの指令に従ってきた国民は、市场というものをどう泳げばいいか全く分からなかった。急に激流に突き落とされて溺れてしまったというのが実情です。その混乱に乗じて成り上がったのがオリガルヒ(新兴财阀)で、社会は犯罪や汚职がはびこり、ゆがんでいきました。
プーチンが大统领に就任した2000年以降、たまたまエネルギーの価格が急上昇し、それによってロシアは10年间の困穷の时期を脱しました。プーチンは、この経済の好転を味方につけながら、「强い国家」の下で社会を立て直していくという像を示した。10年间の苦しい时期を経たロシア人からすると、「强い国家」が秩序を回復してくれるという像はかなり説得力を持っていました。プーチンが阵头に立った第二次チェチェン纷争に関しても、チェチェン侧の猛反撃で泥沼化した第一次纷争で伤ついたプライドを取り戻す、という雰囲気があり、その强硬姿势が国民に受けたと言えます。
西侧との関係でも、ゴルバチョフが始めた冷戦终结は、ロシア人の感覚ではソ连が歩み寄って対等な関係で终结したものだったはずが、西侧は自分たちの胜利として理解し、そこから认识のズレが始まっていたように思います。すでに东西ドイツ统一の时点からロシアの少なからぬ部分で不満が涡巻き始めており、事実ゴルバチョフはそれが要因の一つとなって军にクーデターを起こされました。西侧の支援があまり必要なくなったプーチン时代にその倾向が加速し、西侧に対峙する意味でも「强いロシア」路线が支持されていきました。
プーチンが「非ナチ化」を主张する理由
―― プーチン大统领は侵攻を正当化する理由の一つとして「ナチ」という表现を使っています。
プーチンにとって、第二次世界大戦の记忆は、ロシア国内をまとめていく际のアイデンティティの核として非常に重要です。ソ连军がナチスを打ち负かした、これによってソ连はもちろん世界が救われた、という意识を强く持っています。ソ连?ロシアは多民族国家ですが、それが一丸となってナチスに立ち向かったという记忆は、ロシアをまとめる上で重要な意味を持つのです。
ゼレンスキー大統領を「ナチス」や「ネオナチ」と呼ぶのは、ロシアだけでなく、世界のためにロシアが立ち向かうべき敵なんだ、というイメージを植え付けようとしているのだと思います。「ウクライナ人の多くは善良で本当はロシアと仲良くしたいが、少数の危険分子が彼らを惑わしているので、それを駆除する必要がある」という認識です。 ゼレンスキー大統領はユダヤ系で、先祖がホロコーストの犠牲になっているので、ナチスであるわけがないですが、ソ連?ロシアの文脈での「ナチス」は、ユダヤ人を虐殺したことではなく、ドイツの全体主義と軍国主義が世界に混迷と苦難をもたらした、ということがまずイメージされます。ゼレンスキーがユダヤ系だということはあまり気にしていないだろうと思います。
―― 国际社会への影响は?
すでに影响が现れているところでは、ドイツが军备増强に舵を切りました。今后の成り行き次第でもありますが、ある程度军事力の强化という流れになるのではないかと思います。
その一方で重要なのは、国际社会の1人1人がこれからどう行動していくかということだと思います。例えば、このような暴挙は国际社会がただではすませないということを、プーチンや、彼を支持する人たちにしっかり伝わるようにするということです。当面は経済制裁くらいしか手段がありませんが、これはロシアの次の行動を左右するだけではなく、例えば中国が今後どうするかという判断にも影響してくるはずです。同じようなことをすると経済的に大きな損をし、何も良いことがないと思わせられるかどうか、ということにかかっていると思います。 また、今回はソ連崩壊後の30年間で培われてきた被害妄想のようなものが効果を持ってしまったところがあります。そうした認識のズレを、ロシアに限らず、世界各地でどう解消していくかも、安全保障上の重要課題であることを物語っています。
鹤见太郎
総合文化研究科准教授
东京大学大学院総合文化研究科国际社会科学専攻相関社会科学分野博士课程修了、博士(学术)。エルサレム?ヘブライ大学(日本学术振兴会特别研究员として)、ニューヨーク大学(同海外特别研究员として)などにて研究。2016年より现职。着书に、第12回日本社会学会奨励赏を受赏した『ロシア?シオニズムの想像力』(2012年、东京大学出版会)、『イスラエルの起源』(2020年、讲谈社)など。