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东京大学教员の着作を着者自らが语る広场

赤茶色のシンプルな表紙

书籍名

大日本古记録 中院一品記 [上] (全2巻)

着者名

判型など

256ページ、础5判、上製、函入り

言语

日本语

発行年月日

2018年6月26日

ISBN コード

9784000099851

出版社

岩波书店

出版社鲍搁尝

学内図书馆贷出状况(翱笔础颁)

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『中院一品記』は南北朝期の貴族、中院通冬が記した日記である。建武3年 (1336) から貞和5年 (1349) に至る14年に及ぶ記事があり、同時期を知るうえで欠くべからざる基本史料となっている。通冬が残した日記の自筆原本は、主として東京大学史料编纂所 (以下、史料编纂所) と国立公文書館に伝来し、ほか京都大学総合博物館?公益財団法人大和文華館等に断簡が所蔵されている。
 
記主の通冬は正和4年 (1315) に、上級貴族である村上源氏の一流、中院家に生れた。18歳で鎌倉幕府の滅亡に直面し、南北朝対立の政情不安に身を置くことになるが、およそ政治的には顕著な動きを見せていない。建武政権の崩壊後も京都に残り、そのまま北朝に参仕したが、正平6年 (1351) の南朝による北朝制圧、いわゆる正平一統の後、通冬は南朝方に奔っている。村上源氏の嫡流久我家と、源氏長者をめぐって対立したことがその原因と推測されているが、真相は判然としない。延文4年 (1359) になって漸く北朝に帰参したが、8年にわたって南朝にあったことが災いし、貞治2年 (1363) に亡くなるまで大臣となることは叶わず、従一位大納言で終わった。一品記という名称は、彼の極位である従一位によるものである。
 
本記は、つとに『大日本史料』第6編に収載されたことから、洞院公賢の『園太暦』や中原師守の『師守記』とならんで、南北朝時代研究に必須の史料として知られてきた。しかし総体として活字化されることはなかったため、長きにわたってその刊行が待たれていたところである。幸い2013年度より、史料编纂所所蔵分の修理事業が実現したこと、また2017年度には国重要文化財に指定されたことなどを踏まえ、その全体を上下2冊に分けて翻刻?刊行することになった。
 
上巻となる本冊には、建武3年2月から康永元年 (1342) 6月までの本文、ならびにその紙背文書を収録している。本冊の収載範囲は、通冬の22歳から28歳に相当し、この間、彼は暦応元年 (1338) に権中納言、同3年には権大納言へと昇進を遂げた。結果、様々な朝儀に上卿として臨むに至り、その詳細を書き留めている。とりわけ暦応3年12月に春日社神木が入京すると、藤原氏の公卿が出仕を止めたことから、翌年正月にかけて八面六臂の活躍を遂げている。また政治?社会的な動向としては、暦応2年8月の後醍醐天皇の崩御、同3年10月の佐々木導誉?秀綱親子による妙法院門跡の焼討ち、康永元年2月の法勝寺焼失といった事件が注目されるだろう。
 
なお本冊の刊行と同時に、史料编纂所が所蔵する部分については「史料所蔵目録データベース」() より史料画像の公開を開始している。あわせてご覧いただければ幸いである。
 

(紹介文執筆者: 史料编纂所 助教 井上 聡 / 2018)

本の目次

建武三年  二月
暦応元年  秋冬
              (紙背文書)
暦応二年  春夏(二月~六月)
              (紙背文書)
              秋冬
              (紙背文書)
暦応三年  七月?八月
              (紙背文書)
九月~十二月
              (紙背文書)
暦応四年  正月
              (紙背文書)
康永元年  春夏
              (紙背文書)
 

関连情报

刊行物绍介:
井上 聡:中院一品記 上 (東京大学史料编纂所ホームページ)

 

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