日本史リブレット人 088 岛地黙雷 「政教分离」をもたらした僧侣
近代日本における国家と宗教との関係をどう捉えるかをめぐって、研究者のあいだにはきびしい見解の対立がある。一方には、国家神道という概念によってそれを理解しようという伝統的な立場があり、他方には、そうした概念は誤解を招きやすいとして、異なる説明を模索する動きがある。ただ、そうした相違のある反面、存外に意見の一致を見ている点もある。そのひとつが、近代日本の国家と宗教の関係が形成されていくにあたり、岛地黙雷 (1838-1911) という僧侶が多大な影響力を持ったということである。
本書は、どのような立場の論者からも重要人物とされ、個別研究論文も数多くあるにもかかわらず、それらを踏まえた伝記のなかった岛地黙雷の評伝という形をとりながら、近代日本の国家と宗教との関係を、その形成の場においてつかまえようという試みである。
岛地黙雷は、長州藩領にある浄土真宗本願寺派の寺院に生まれた。藩領内の真宗寺院の改革で頭角を現し、明治維新直後には本山でも活躍。ついで真宗の対政府交渉を担当していたところで、大きな転機が訪れる。本願寺の次期法主を岩倉使節団と同行させるという計画が登場、それは実現しなかったものの、黙雷自身が、使節団に少し遅れて、ヨーロッパとインドの視察に行くことになったからである。
この視察を通じて、黙雷は、religion / 宗教という当時の日本人にとって新しかった概念を受容し、それを用いて仏教を弁証していくようになる。日本で宗教に値するのは仏教のみであり、仏教こそがキリスト教と同じ土俵で戦える唯一の存在である、と。だが一方で、かれは西洋の文明に圧倒された。そして西洋の文明はキリスト教の成果であると、キリスト教の宣教師たちは誇っていた。それに従うと、文明化を目指すならキリスト教を受容すべしという、黙雷には耐えがたい指針しか出てこない。かれはその点をこう考えることで回避した。ヨーロッパの文明は宗教ではなく学術に基づくものである、と。
こうした観点から、帰国后の黙雷は、政府の政策を転换させるために运动を行う。その构想を简洁に述べれば、仏教がキリスト教に対抗できるよう、宗教には活动の自由を与えよ、そしてそのためには「政教分离」をせよ、とのものだった。黙雷は、状况の変化に応じて説得的な论理を考案するとともに、长州出身という人脉を巧みに活かし、そのほとんどを実现させることに成功する。
こうして近代日本における国家と宗教との関係は、それまでとは異なり、宗教という概念に基づき、「政教分離」を基調としたものへとなっていく。ただしそこにおける宗教は、当事者によって、文明化とも関わらぬようなものへと限定されていた。このことは、宗教の社会的役割をも制約し、宗教の存在感が稀薄な社会の形成を促す。そしてそれに大きく寄与したのが、逆説的に聞こえるかも知れないが、岛地黙雷という僧侶であった。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 准教授 山口 輝臣 / 2016)
本の目次
1. 長州に生まれて
2. 海を渡って - ヨーロッパとインド
3. 黙雷の時代
4. 黙雷と明治仏教