第1141回
自由
卒后8年间お世话になった东大を离れ、カリフォルニア州パロアルトにある顿狈础齿分子生物学研究所に留学した。1989年4月のことである。サンフランシスコ空港には长さが10尘はある立派なリムジンが迎えに来ていた。走り出したリムジンの遮光窓を通して见た外の景色も半透明で现実感が伴わない。知らない国に来たことを痛感した。パロアルトに到着した私を待っていたのはライトブルーの空と素晴らしい研究环境だった。大学病院の忙しい日常から解放された私は研究に没头し、2ヶ月后にはアメリカに永住したいと思うようになっていた。
今の日本では自由がますます失われていくように感じる。お互いに见张り合い、非难し合う状况はいいとは思えない。アメリカは自由の国と言われるだけあって人の考え方も自由だ。周りの评価を気にするより、自分が好きなことをする。そして互いに认め合う。そういう大らかな雰囲気がある(勿论、问题も沢山ある)。そんなアメリカでの8年间の生活は、校则のない中高で育った私の自由度を加速したようだ。帰国后も若手と一绪に研究に没头していた私だが、53歳の时に研究者仲间に诱われ、30年ぶりにロックバンドでドラムを叩き始めた。初めての作词もした。レコーディングスタジオで録音して颁顿を発売したことは予想もしない未来だった。これで势い付き小説も书き、昨年1月に処女作を上梓した。この歳になって新しいことができるのだから、若い人にはもっともっと多くの可能性があると思う。若い人が楽しく充実した道を进み、闭ざされた街を再び开放してくれることを期待して止まない。
私が20年以上に亘って担当している医科研の近代医科学记念馆には多くの小中高校の生徒が见学に来る。彼らは研究や医疗に兴味があり、皆一様に前向きで将来の梦を持っている。小学校2年生が见学に来た时のことである。见学が终わり子供达の质问を受けていた时、あどけない质问の中で小学生とは思えない质问が出た。「人生で一番大切なものは何ですか?」。虚をつかれた私は「それは自由です」と思わず本音で答えてしまう。そして、この子供达が伸びやかに育ち素晴らしい国を作ってくれる未来を想像できる爽やかな気分になった。その日は东京の空も綺丽なライトブルーだった。
北村俊雄
(医科学研究所)