纺ぎ出された人と犬と大学の物语ハチ公と东大
东京大学に関係する犬のなかで
もっとも有名な存在といえば、ハチ公でしょう。
东京の渋谷、秋田の大馆、叁重の久居と
各地に像が建てられ、
日本、アメリカ、中国でも
その生涯が映画化された秋田犬。
知名度は抜群ですが、
饲い主の知名度はあまり高いとは言えませんでした。
1923年に生まれて1935年に死んだハチ公は
今年で生诞100周年。
没后80年の节目に际して生まれた、
大学とハチ公の新しい物语について、
関係者の话からまとめて绍介します。
- 生诞100周年记念企画
1.
発案者が振り返る
「东大ハチ公物语」
ICHINOSE Masaki
东京大学名誉教授/武蔵野大学人间科学部教授
物语は哲学者の爱校心から始まった
東京大学弥生キャンパスの農正門を入ってすぐ左手に、上野英三郎博士とハチ公の像があります。2015年に披露され、キャンパスの新名所となったこの像は、元はと言えば一人の哲学者の思いから始まりました。文学部の一ノ瀬正树教授(当時)です。
「ハチ公は映画の影响もあって海外でも有名ですが、饲い主が东大の先生だったことは知られておらず、教职员でも知らない人のほうが多かったはず。人を待った犬は有名なのに犬に待たれた人が知られていないとは少々间抜けだなと思っていました」
小さい顷から犬が好きで、映画「」に涙が止まらなかったという一ノ瀬先生。没后「ハチ十」年のタイミングで像を作る発想が生まれるのは自然な成り行きでした。もう一つの背景は、研究で英国の大学と縁が深かったこと。一ノ瀬先生は、チャールズ?ドジソン(ルイス?キャロル)が勤めたオックスフォード大学の前に「不思议の国のアリス」の店があり、访れた人の多くが大学にも立ち寄るのを见ていました。一方、ケンブリッジ大学は「くまのプーさん」の础?础?ミルンと息子のクリストファー?ロビンが通った大学として知られます。
「教员の一人として、大学には何かしら物语性が必要だとの思いがありました。オックスフォードがアリス、ケンブリッジがプーさんなら、东大はハチ公だな、と。物语性を加えてファンを増やしたいという「爱校心」が像の発想を呼んだのかな」
当初は别の场所だった?
2010年秋、文学部ゆかりの佐藤慎一副学长(当时)に相谈し、助言を得た一ノ瀬先生。全学委员会で交流があった农学部の正木春彦教授(当时)に相谈し、上野博士が初代教授を务めた研究室を承継する塩沢昌教授(当时)の快诺も得たことで、プロジェクトは大きく动き出しました。14名の先生が名を连ねた「」で検讨を重ね、出した方针は、博士と暮らした顷の若い姿で、饲い主と会えた喜びが伝わる像に、ということ。彫刻家は塩沢先生が日展で见つけた植田努さんに决まりました。
「事前にブリーダーを访ね、秋田犬が塩沢先生に飞びつく瞬间を撮って见本にしました。名古屋のアトリエを访ね、细かく注文もつけてしまいましたね。试作时、上野像の颜のモデルは植田さんのご夫人だったそうで、どことなく柔和な表情に感じました」
费用の问题は东大基金で募った寄付金ですぐに目処が立ちましたが、少し问题だったのは设置场所。驹场案もありましたが、ハチ公の臓器と上野博士ゆかりの农学部がある弥生の地が选ばれました。当初の想定は农正门から伸びるメインストリート上。シンボルとしてわかりやすい位置にとの思いでしたが、研究との関连性が薄いのではないかとの指摘を受け、现在の场所に落ち着いたのでした。
ハチ公に触ったおばあさんも除幕式に
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『』(一ノ瀬正树?正木春彦編/東京大学出版会/2015年)
哲学、動物学、遺体科学、社会学、農地環境工学などの観点から紡がれた新たなハチ公物语。
「大学が犬人気に乗っかるとは何事だという批判もありましたが、そこには大学が高尚なものだという先入観があるのではないでしょうか。プロローグを読んでいただければ、本书がアカデミズムを体现する一册であることが伝わると思います」と一ノ瀬先生。
「作る会」は、2014年にを行なって理解を促进し、それを元にした书籍企画も进めました。取り组みを通じて立ち现れた「犬観学」の构想は一ノ瀬先生の哲学にも影响を与えました。
そして迎えた2015年3月8日。像の除幕式には多くのお客さんが集まりました。なかにはハチ公によく似た秋田犬や、小さい顷にハチ公を见て触ったというおばあさんの姿も。多くのメディアが报じ、大きな反响がありました。
「赛銭のようにお金を置く人もいました。会いたいのになかなか会えない相手に会えるかも、と连想されたのでしょう」
米国ニュージャージー州ラファイエットのペット公园墓地からは、复製を作りたいとの申し出が。「作る会」は前向きに検讨し、像の鋳型の贷し出しを决定。2016年10月に现地で除幕式が行われました。
2018年に东大を离れ、像を近くで见守ることはできませんが、いまも爱着は変わらず、「鞄や首轮の细い部分の破损が心配」と语る一ノ瀬先生。哲学では「犬のような生活」を目指す古代ギリシアの「犬儒派」が知られますが、一ノ瀬先生も「犬儒派」に改めて注目し、考察を加えていこうとしています。
2.
十代目の后辈に闻く
上野式农业土木学
吉田修一郎
YOSHIDA Shuichiro
农学生命科学研究科教授
まだ早すぎた上野ビジョン
ハチ公の饲い主だった上野英叁郎博士は、日本の农业土木学の创始者として知られます。农业土木学とは、农地を整备し灌漑と排水を轴に地域环境を整えるための技术学。农商务省技师を経て欧米に留学し、先端の耕地整理理论を吸収した上野博士は、农科大学(东大农学部の前身)で行った授业を元に『耕地整理讲义』を上梓しました。
そこで书かれた理论の一つが区画论です。昔の水田は、水路や农道が各々の区画に接しておらず、非効率的でした。各区画に接する水路はあっても用水路と排水路が未分离のものもありました。当时、田区改正?畦畔整理と呼ばれた水田区画の整备が进んでいましたが、地域により様々な方法が採用され、不适切な设计や施工も多くありました。上野博士はそのような现状を批判し、区画、道路、水路の性状や构造と配置を一体的に捉えて、そのあるべき姿を提唱したのです。
「ただ、上野理论がすぐに受け入れられたわけではありません。先を见据える正しいビジョンがありましたが、当时の农家が実践するには早すぎた感があります」
そう语るのは、上野博士が初代教授を务めた农业工学讲座を継承するの第10代教授、吉田修一郎先生です。上野博士が主张した圃场整备は、规模を大きくして机械を导入しないと効率が上がりません。地主は小作农を长时间働かせれば収量を上げられたため、投资をしてまで区画を広げようとは思わなかったのです。
「戦后に农地改革が行われ、各农家のインセンティブが働く形になると、区画整理で生产性を上げるための理论が実践されました。区画论で提唱された「上野式」はそのまま日本の水田の标準となっています」
教育者としての功绩も多大
上野博士の教えは、講義や著書で学んだ教え子たちによって全国に広がり、多くの研究者や技術者の育成につながります。日本初の農業土木学者は、教育者としての功绩も多大でした。その人望は、教え子らが後に博士の墓とハチ公の碑を建てたことからも窺えます。
「夫人の八重子さんは内縁だったために墓が别でしたが、后辈たちの奔走の结果、2016年にハチ公と上野博士が眠る青山に合葬されました。その后辈の一人が、私の先代である塩沢昌教授です」
上野博士が始めた农业土木学は、时代が进むにつれて広がり、环境や生态系まで扱うようになりました。1929年设立の农业土木学会は2007年にに名称を変更。その农业农村工学の分野では近年、流域治水が课题となっているそうです。
「河川の整备だけでは気候変动に伴う水害に対応できないので、农地を含む流域全体で被害を缓和しようという考え方です。洪水の流出を遅らせる机能も持つのが农地。作物への影响を最小限にとどめつつ、その可能性を広げるのも、上野式を受け継ぐ私たちの仕事です」
9/26(火)公开の后编はこちら
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