纺ぎ出された人と犬と大学の物语ハチ公と东大
东京大学に関係する犬のなかで
もっとも有名な存在といえば、ハチ公でしょう。
东京の渋谷、秋田の大馆、叁重の久居と
各地に像が建てられ、
日本、アメリカ、中国でも
その生涯が映画化された秋田犬。
知名度は抜群ですが、
饲い主の知名度はあまり高いとは言えませんでした。
1923年に生まれて1935年に死んだハチ公は
今年で生诞100周年。
没后80年の节目に际して生まれた、
大学とハチ公の新しい物语について、
関係者の话からまとめて绍介します。
- 生诞100周年记念企画
9/19(火)公开の前编はこちら
记事を见る3.
75年后の検証者が语る
死因の真実
内田和幸
UCHIDA Kazuyuki
农学生命科学研究科教授
再検証は研究者の縁から始まった
1935年3月8日未明に渋谷駅の南侧で発见されたハチ公の遗体は、驹场にあった东京帝大农学部の病理细菌学教室(现?獣医病理学研究室)に运ばれ、当日午后に病理解剖されました。死因は慢性犬糸状虫(犬フィラリア)症。いまでは非常に少なくなりましたが、当时はかなり多くの犬がこの寄生虫の感染症で死んでいました。
遗体は国立科学博物馆で剥製となり、解剖で採取した臓器(肺、心臓、食道、肝臓、脾臓)はホルマリン固定标本として獣医病理学研究室に保管されました。2006年からは农学资料馆で上野博士の胸像とともに展示されてきましたが、2010年に新しい展开がもたらされます。きっかけは学内の研究者が遗伝子を调べたいと愿い出たこと。连络を受けたのは、獣医病理学研究室で准教授を务めていた内田和幸先生でした。
「宫崎大学时代の教え子の渡边学先生(新领域创成科学研究科)が、イヌゲノム研究の一环で现代の秋田犬とハチ公の遗伝子の相违を调べたい、と。そういえば当时の剖検记録には「日本犬」としか书かれていませんでした」
调べるには臓器の切片が必要です。せっかくだから病理组织标本を作ろうと决めたのは、研究室を率いる中山裕之教授(当时)でした。1935年当时はまだ顕微镜観察が一般的ではなく、フィラリア症以外の病変究明はされませんでした。しかし、実はハチ公の肺と心臓には瘤があちこちにあり、中山先生も気になっていたのです。
犬糸状虫と癌にやられていたハチ公
内田先生が肺と心臓の瘤から採取した组织を顕微镜で観察したところ、肺に発生した「癌肉肿」とそれが心臓に転移したものである可能性が高いと判明しました。
「肿疡细胞の形态は主に纺锤形でした。纺锤形は肉肿の特徴。75年间もホルマリン浸けだったので、遗伝子と同様、精査は不可能でしたが、たぶん肉肿様癌でしょう。上皮と间叶组织を行き来する悪性肿疡だったようです」
心臓に巣食った犬糸状虫は约30匹。フィラリア症が进んでいたのは确かですが、そこにさらに肺の悪性肿疡も加わっていたわけで、晩年のハチ公はかなり苦しかったと考えられます。
助手时代、解剖室の前に置かれたハチ公の臓器を捨てようとして中山先生に怒鸣られたという内田先生は、犬种ごとの疾患の违いに着目してきました。人间が犬种を固定してきたせいで、ブルドッグなら脳肿疡、パグなら自己免疫性脳炎など、特定疾患の遗伝子も固定されてきました。獣医疗では犬种が大きな指标となります。
「パピヨンに多い神経轴索ジストロフィーの原因遗伝子を特定したこともあります。ハチ公以外のことでも兴味を持ってもらえる研究成果を出したいですね」
4.
书き継がれる
ハチ公と东大の物語
溝口 勝
MIZOGUCHI Masaru
农学生命科学研究科教授
ボランティアでシールを作って広报
农学部にはハチ公と上野博士像の広报活动に手弁当で尽力してきた先生がいます。それが沟口胜先生。の教授を务めますが、学生时代は吉田先生(前编参照)と同じく上野博士の教えを継ぐ研究室で学び、大学3年时にハチ公を意识したそうです。
「第5代教授である竹中肇先生の授业で、ハチ公は渋谷で焼き鸟をもらうのが好きだっただけかもよ、と闻いて兴味を持ちました。饲い主を毎日迎えに行くなんて本当かよと思っていたので、犬らしくていいな、と」
ハチ公は农业土木学の笔搁に使えるぞと考えた沟口先生ですが、当时は陆上部の活动で忙しく、活动には至らず。时を経て研究者となり、一ノ瀬先生(前编参照)が声を上げたのを知り、卒业生にも出番が来たと思って「ハチ公と上野英叁郎博士の像を东大に作る会」に加わりました。像建立の目処が立った后、手がけたのはシールの作成です。像を见に来てくれる人に何か记念の品を渡したかったのです。上野博士とともに暮らした时期はハチ公がまだ幼かったことを考虑し、絵柄は子犬のシルエットに。2015年9月から、背景を季节ごとの絵柄にしたシールを毎月约2000枚印刷して农正门に置いて配布するようになりました。
「春は桜、夏はひまわり、秋は红叶、冬は雪景色、受験の时期には合格祈愿のシールを作りました。コロナ祸で约3年间休みましたが、全部で50种ほどあり、楽しみに集めてくれている人もいるようです」
教员たちの思いを元职员らも后押し
除幕式の際には、現地でコーヒーとクッキーと文具を頒布する試みも行われました。発案者は農学部元職員の齋藤富子さん。「作る会」の活動を知って盛り上げたいと願い、塩沢先生の快諾を得た齋藤さんは、旧知の丹羽泰子さん(国际情报农学研究室秘書)とともに「」を立ち上げました。当日だけの予定でしたが、翌日以降も多くの照会があり、弥生講堂の使用日や五月祭の際に出店したり、農正門前の酒屋に商品を置いてもらったりしてきました。農学部広报室長だった溝口先生と相談し、2018年からは毎月8日に農学資料館に出店(コロナ禍中は休止)。売上の一部は農学部に寄付され、エアコンなどの農学資料館の設備や学生支援のために活用されています。
「ハチ公& Dr.Ueno企画」の相談役を務めながら、カレンダーを生協食堂に置いたり、うちわをオープンキャンパスで配ったり、研究で縁がある青森の農家の協力を得て像のシルエットが浮かび上がる「ハチ公りんご」を売ったりもしてきた溝口先生。11月に向けて生協食堂用に仕込んでいるのは、「ハチ公ラーメン」です。
「像のシルエット入りかまぼことハチ公が好きだった焼き鸟を使います。上野博士は出身が叁重で、叁重大学に农业土木学科を作った人でもあります。叁重大でも提供できると最高ですね」
1984年には当时の农学部生の発案で上野博士の胸像を渋谷のハチ公と対面させる催しが行われましたが、生诞100周年の今年、その志を継いで动き出した学生有志がいます。また、11月4日(土)には农学部1号馆でも企画されています※。ハチ公と东大の物語は続きます。
※一ノ瀬先生、内田先生、沟口先生のほか、武内ゆかり先生、総合研究大学院大学名誉教授の长谷川眞理子先生が登坛予定です。
学生有志が祝う100周年
「ハチ公大好き东大生の会」
農学部の有志が結成した「ハチ公大好き东大生の会」では、ハチ公100周年を祝うイベントを企画し実施しています。8月5~6日には「HACHIフェスin渋谷」へブースを出展(写真)しトークイベントに出演。東大生協との連携でハチ公ラーメンの広報を担当し、11月24~26日の駒場祭では焼き鳥の露店を出す予定です。今後の活動はでご确认ください。
ゲームで学ぶ农山渔村
「忠犬 農山漁村をいく!ハチと上野博士の冒険」
沟口先生は全国の农山渔村を知って学ぶための笔颁?スマホ用のゲームを开発して公开しています(农林水产省农村振兴局とのコラボ)。プレイヤーがハチ公&上野博士になって现代の农村地域を旅し、畑を动物から守ったり川で有害外来种を捕まえたりしてゴールを目指すアドベンチャーゲーム。めざせ、ハイスコア!
驹场ハチ公物语
文/田村 隆(総合文化研究科准教授)
修身の教科书で描かれた忠犬像
ハチ公が渋谷駅で上野博士を待っていたことは広く知られてきた。たとえば修身の教科书『寻常小学修身书』巻二の教材「恩ヲワスレルナ」のように(発行は昭和9(1934)年11月22日)。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ ニ 出ル 时 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕カタ カヘル コロニハ、マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
しかし、考えてみればこれは随分と奇妙な话である。上野博士の自宅は渋谷区松涛の里手にあった。大学と渋谷駅の间にあたる。そこから驹场への徒歩十分程の通勤にわざわざ反対方向にある渋谷駅を使うだろうか。そもそも、ハチ公が上野博士と一绪に过ごしたのは大正13年の1年余りのことで、このときにはまだ井の头线は通っていない。上野博士は徒歩で驹场の农学部に通勤し、ハチ公はその正门まで送り迎えをしていたらしい。『东大ハチ公物语』(东京大学出版会、2015年)にも「上野博士は驹场の大学に徒歩で通勤し、ハチは大学にも送り迎えしていた」と指摘があるし、林正春编『ハチ公文献集』(1991年)所収の斎藤弘吉氏による「农学部の表门付近で马上から见かけたことがあった」という証言などからも确认できる。
毎日駅に迎えに行ったのではない
上野博士が電車を使ったのは西ヶ原にある農商務省農事試験場を訪れるときなどであったというから(『渋谷駅100年史 忠犬ハチ公50年』日本国有鉄道渋谷駅、1958年)、毎日電車通勤であったかのような話は誤りである。映画「ハチ公物語」(1987年)には上野秀次郎教授が朝渋谷駅の改札でハチ公と別れた後、電車の中で新聞を読み、大学の門をくぐるシーンがあるが、現実にはこのようなことはなかったはずである。そのリメイク作品「HACHI─約束の犬」(2009年)のポスターにある「駅にはいつも君が待っていた」という惹句も原作を引き継いだもので、電車通勤のパーカー?ウィルソン教授をHACHIが駅まで送り迎えする。『朝日新聞』昭和7年10月4日朝刊の斎藤弘吉氏による記事「いとしや老犬物語」には「帰らぬ主人をこの駅で待ちつづけてゐるのだ」とあるがそれは博士の死後のことであって、ハチ公と博士が毎日一緒に渋谷駅まで行き帰りしていたとは記されていない。博士の死後に渋谷駅で待っていたハチ公の行動から逆算して、生前の博士を毎日渋谷駅に送り迎えしたというストーリーが、おそらくは先に紹介した修身の教科書あたりから出来上がったのであろう。
もう一つ注意すべきは、当时の农学部正门は今の驹场キャンパス正门の场所にはなかったという点である。炊事门を出て渋谷方面に歩く途中、松涛二丁目交差点の手前に、叁田用水の暗渠をまたぐ箇所がある。デジタル公开されている大正11年4月1日现在の「东京帝国大学农学部建物位置図」や、日本地図センターのアプリ「东京时层地図」で确认すると、この辺りに当时の正门があったようである。手元の絵叶书を见ると、正门の前に桥の栏干が写っており、ここが叁田用水とおぼしい。ハチ公はこの辺りまで博士の送り迎えをしていたのだろう。驹场から渋谷に続く道はハチ公の足跡をたどれる、いわばハチ公通りである。
『教养学部报』第620号(2020.07.28)より抜粋?転载
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