东京大学基金寄付者インタビュー第十九回 : 倉本 聰様
东京大学基金 寄付者インタビュー 第十九回 : 倉本 聰様
倉本 聰(くらもと?そう)
脚本家?剧作家?演出家
1935年1月1日生
东京都出身。1959年文学部美学科卒业。代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「昨日、悲别で」「ライスカレー」「优しい时间」「风のガーデン」など多数。
大学時代から脚本制作を手がけるようになり、ニッポン放送勤務を経て、フリーランスの脚本家として独立。その後、北海道は富良野に移住し、数々の名作を書き上げ、さらには後進を育成する「富良野塾」を立ち上げるなど、氏の活躍は多くの方々がご存知のことだと思う。そんな倉本氏から东京大学基金は「東京大学北海道演习林の保護活動のために役立ててほしい」とご寄付をいただいた。さらに、演习林の中にある「カツラの谷」に設置する記念樹プレートに、題字を揮毫いただく予定である。今回はそんな倉本氏から、学生時代の思い出や、東大生への期待をお聞きした。
2浪を経て、东京大学文科二类へ进学。
大学にはほぼ行かず、剧団に入り浸る
东大入学
僕は3度目の挑戦で何とか东京大学文科二类に合格したのですが、高校时代から浪人时代もずっと演剧や映画にはまっていましてね。驹场には多少通いましたけど、本郷にはまったく行かなかった。「剧団仲间」というのがありまして、アルバイトしながらそこに毎日入り浸っていたんですよ。中村俊一さんという素晴らしい演出家がいらして、その人の一挙手一投足を、部屋の隅でひたすら盗み见る4年间でした。あとは剧団の文芸部で、剧団新闻の编集をしたり、パンフレットの编集をしたり。大学よりも、って言っちゃいけないんだけど(笑)、自分のその后の人生にとって非常に大切な勉强の时间になった。芝居ってどうやってつくられるのか、その根底をみっちり学ぶことができましたから。
読书时间増の大学时代
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3年からの専门课程、本当は仏文に行きたかったのですが、成绩の悪い自分が入れるのは考古学かインド哲学か美学しかない。结局、&濒诲辩耻辞;美&谤诲辩耻辞;という字があったから、何となくよさそうだと美学科を选択したんです。そんな适当极まりない理由ではありましたが、のちに东映で映画监督になる中岛贞夫とか、テレビマンユニオンの代表になった村木良彦とか、けっこう面白い连中と出会えたことは良かったです。
ちなみに美学の授业は、だいたいドイツ语を使うんですよ。でも、僕はドイツ语の&濒诲辩耻辞;ド&谤诲辩耻辞;の字も知らない。后にも先にも1回だけ、竹内敏雄先生のアリストテレス美学の授业に出てみたら、「仓本君」と名前を呼ばれた。返事をしたら「おっ、存在しましたか」と(笑)。教科书を読めと言われても、当然まったく読めません。それで优等生の中岛が隣から全部、口伝いに教えてくれて、イッヒ何とかって言っていたら、竹内先生が「时间がもったいないから、中岛くん、直接読みなさい」と(笑)。ただ、その授业で竹内先生がアリストテレスの「美には利害関係があってはならない」という言叶を教えてくれた。あ、これはすごいことを闻いちゃったと。今でも僕の&濒诲辩耻辞;行动原理&谤诲辩耻辞;ですが、この言叶を知ったことだけでも、苦労して东大に入った元は取れたと思いました。
僕は本当にひどい学生で、学期末の试験に行っても、教授の颜すらわからない。今でも试験前にノートがなくて焦る悪梦を见てうなされるんですよ。梦の中に、秀才然とした女子学生が出てくるのですが、头を下げて「ノート贷して」と頼んでも断られちゃう。それが、なぜだか必ず吉永小百合か竹下景子(笑)。いずれにせよ、こんな僕を卒业させてくれた东大と、试験前にいつも世话になった中岛には感谢しています。&濒诲辩耻辞;东大出&谤诲辩耻辞;という立派な&濒诲辩耻辞;箔&谤诲辩耻辞;もつけさせてもらえましたしね。今回のご寄付はその赎罪でもあるんです(笑)。
(中略:続きと全文は、「东京大学基金」ウェブサイトのをご覧ください。)
富良野の自然に魅了され永住を决意。
演习林长&濒诲辩耻辞;どろ亀さん&濒诲辩耻辞;との出会い北海道演习林
その後、富良野に移ったのも偶然なんですよ。積丹の美国に良い土地を見つけたのですが、岩盤で水が出ない。これはダメだなと思っていたら、たまたま飲み屋で隣り合わせた書道家が、「富良野という土地を知っているか?」と。結果、連れて行ってくれることになって、翌朝7時に札幌で待ち合わせ、10時くらいに富良野に着いて、市役所の人を紹介されたんです。富良野には、東京大学北海道演习林の林長を務めていらした「どろ亀さん(故?高橋延清教授)」が設計した、「文化村」という4町歩(4ha)もの広大な森がありましてね。それは、人間がどのくらいの割合で住めば森と共存できるかという壮大な実験の場で、木は切っちゃいけない、柵も立てない、ただし、家を建てる分だけ木を切っていい。道は舗装しない林道、水は沢から引く、電気は通してある。この場所に立った瞬間、僕は一発で惚れてしまって――その日のうちに、ここに永住しようと決めていました。
爱犬ヤマグチと富良野移住初期
话を変えますが、徳岛藩の笔头家老かつ淡路岛の洲本城主だった稲田邦植という人がいました。これが头の良い人で、参勤交代にあまり人を出さず、明治维新にもほとんど协力せず、蓄えた金で若い奴らをこっそりヨーロッパに留学させていた。それで优秀な若者が戻ってきた。その后、廃藩置県になったでしょう。そのとき、淡路岛も蜂须贺の徳岛藩と一绪に、徳岛県に入れかけられたのですが、それに稲田家は逆らった。で、戦争になるのですが、外国帰りの头の良い若者たちはケンカに弱い(笑)。あっという间に溃されて、その连中が襟裳岬のほうに流された。それが史実にもある「稲田騒动」で、実は、流された末裔が「北の国から」の黒板氏(黒板五郎のご先祖)だった、と。ここは僕が考えた设定ですけど(笑)。その黒板氏が富良野に流れ着き、この地に暮らす女性に恋をして野合しちゃう。それが何代か続いて黒板五郎が生まれ、纯と蛍に続いていくという。実は黒板家のご先祖を描いたドラマの构想が头の中にはあって、いつか「北の国から1900」を実现したいと思っているんですよ。
话を戻します。どろ亀さんとは、お会いしてすぐに意気投合しました。ある日、どろ亀さんが、「聪さん、俺は退职して最近ヒマだから、オタマジャクシの研究を始めた」って言い出した。演习林の中に3つの池があって、それぞれの池にカエルがオタマジャクシを产んでいる。でも全部别の种类のカエルらしい。どろ亀さんは、「これは斎藤さん、これは石川さん、これは中岛さん」と名前をつけて2年间追跡调査をするんです。そしたら、すべて确実に别の种类だということが见えてきた、と。そこまでカエルに付き合って、さらに知りたいところが出てきてやっと、中学程度の参考书を図书馆で借りて调べたら、3つのカエルの种类が判明して感激したって言うんですよ。この话を闻いて、僕はかなり感动しました。
(続きと全文は、「东京大学基金」ウェブサイトのをご覧ください。)