レーモン?クノー 〈与太郎〉的叡智
レーモン?クノーのいくつかの小説は、ぶらぶらしているばかりで、生产的なことはおよそ何をやらせてもダメという落语の与太郎みたいな连中を主人公に据えている。まわりからは愚か者だと思われている彼らのことを、自分のことを十分に知りつつ完全に満ち足りた状态にある「贤者」に他ならないと喝破したのが、哲学者アレクサンドル?コジェーヴだった。彼らは确かにあまり世の中の役には立っていないものの、たいした欲も持たず幸せそうにしている。私はまずこういうキャラクターが大好きになった。
ところが、こういう一见ぼんやりした登场人物を生み出したクノーのほうは、膨大な知识を蓄え博识で知られる作家だったという。クノーのなかで、学问とか知识といったものには、いったいどういう意味づけがされているのだろうか。そんな疑问を抱いていた顷、たまたま読んだエッセーにこんな一节を见つけた。「レーモン?クノーは、もしこういう表现が许されるなら、《正体が摑まえにくい》作家の一人だといえるだろう。いわゆる《难解な》作家とも少し违う。〔&丑别濒濒颈辫;〕それでいて、彼の作品全体が、あるいは文学に対する彼の构えそのものが、いささかわれわれの文学的通念からはずれているのである」(叁轮秀彦)。この言い方を借りるなら、私は知に対する「通念からはずれたクノーの构え」が気になり始めていたのだ。
クノーは自ら企画した百科事典の広告文に、「嘘と误りについての巻」も用意するつもりだと书いている。结局この目论见は実现しなかったのだが、「真実」の集成であるはずの百科事典に「嘘」や「误り」まで含めようと考えるあたりに、知に対するクノーの独特な考え方がみてとれるだろう。クノーには、まことしやかな物言いや有无を言わさず押しつけられる真実への警戒感があるようだ。百科事典というものは、みずから権威となり絶対的な规范になる危険をはらんでいるものだが、「嘘と误りの巻」にはそのような百科事典の病を中和する意図が込められていたとも考えられよう。
クノーは詩人としても知られており、結構な数の詩集を刊行している。『運命の瞬間』所収の一編では、冒頭から「詩なんてまったくたいしたものじゃない」と言い放たれる。だが、続く行では「せいぜいアンティル諸島のサイクロンか / 中国海のタイフーンといったところ」と巨大災害と比較され、逆説的に「詩」の大きさが歌われていることが判明する。「たかが文学、されど文学」といった言い方はどんな分野においても意味をなすことだろうが、この両面のうち、「たかが」と言える羞じらいをもったフランス作家は思いのほか少なく、尊大で大仰な物言いばかりが目につくなかで、クノーのこうした姿勢は貴重である。そのような知に対する、あるいは文学に対する、クノーの特異なスタンスを明らかにするとともに、魅力溢れるクノー的登場人物を広く紹介したいと思って書き上げたのが本書である。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 教授 塩塚 秀一郎 / 2023)
本の目次
第1章 游园地と礼拝堂 『わが友ピエロ』――ピエロの场合
第2章 映画と梦想 『ルイユから远くはなれて』――ジャックの场合
第3章 千里眼と戦争 『人生の日曜日』――ヴァランタンの场合
おわりに
あとがき
レーモン?クノー作品邦訳リスト
関连情报
福田宏樹 評「世の中をついでに生きる賢者たち」 (朝日新聞 2022年7月2日)
书籍绍介:
新刊コーナー (『缀叶』狈辞.412 2022年11月10日)
https://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/images/teiyo-412.pdf
[対談] 塩塚秀一郎×三ツ堀広一郎「文学における笑いと遊び――レーモン?クノーの持つ〈賢者〉?〈庶民の知恵〉?〈とりとめのなさ〉」 (図書新聞 2022年9月17日)
塩塚秀一郎「異色の知性派作家が描く、「世の中ついでに生きている」魅力的なお調子者たち」 (ALL REVIEWS 2022年5月20日)