ナショナル?シネマの彼方にて 中国系移民の映画とナショナル?アイデンティティ
本書は、中国本土以外の場所に居住する中国系移民によって製作された中国語映画を研究対象としている。これらの映画は、映画の前に国名を冠するいかなるナショナル?シネマの枠組みにも収まらないもので、いわば <中国映画> とは呼ばれない <中国語映画> である。たとえば1933年に、5歳の時に渡米した中国系移民のジョセフ?チョウという人が、サンフランシスコでGrandview Film Companyという映画会社を設立させた。以降1948年ごろまで、30数本の中国語映画がアメリカの地で移民たちによって製作された。これらの「無国籍映画」映画について、私が調べている。
现在の映画研究では、国籍を指标として映画を分类し批评するのが、主流であろう。しかし、个々の国を単位とする映画研究のアプローチでは、もはや把握しきれない映画史の问题が存在している。トーキー映画が中国国内で大きな人気を博した1930年代初头から、アメリカや东南アジアなど中国大陆以外の场所においても、中国系移民たちが自らの母国语を使って异郷の地で映画を作り始めていた。海外製作されたこれらの中国语映画は、ただ単に中国系移民の郷愁を癒すエンターテイメントだけではなかった。移民たちの映画はコミュニティのなかに存在していたさまざまなエスニック共同体を均质化させていくと同时に、観客を感情的に结束させる力も持っていたのである。
映画を通じて移民のアイデンティティが変容する过程を探ってきたが、その考察は、海外で暮らしている私自身にとっての内省の旅でもあった。中国で生まれ育ち、中国语による教育を受けた汉民族の中国人である私は、もしも日本で暮らす机会を得られずにずっと中国本土で生活を送っていたら、「中国文化?中国语?中国国籍」の叁位一体の构造が一致した「中国人マジョリティ」として、その保护下にない中国系移民の现実を想像できないまま、一生を终えることになったのだろう。中国と日本のあいだを「越境」することによって、「中国人」と自ら名乗る意味を再考する机会が与えられたのである。
グローバルか进行し、お金?情报が国境を越えてますます流动化しつつあるなかで、复数の文化や社会の境界に生きなければならない人间はますます増えることであろう。移动の时代に生を受けたわれわれは、中央集権的な国民アイデンティティへの同化に埋没されない「个」としての生き方を模索する机会をついに手に入れた。半世纪前における中国系移民のアイデンティティは、「国民」としての自己同一性を超えたあり方を模索する现代のわれわれに、新たなアイデンティティを把握するための座标轴を提供してくれているのである。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 准教授 韓 燕麗 / 2018)
本の目次
第I部 戦中編―華僑アイデンティティの構築
第一章 香港における広東語映画と国民統合の問題
第二章 在米中国系移民の映画と華僑意識の構築
第II部 終戦編―動揺するアイデンティティ
第一章 華僑からチャイニーズ?アメリカンへ
第二章 香港製の「国産映画」と二種の「中国国民」
第III部 戦後編―かりそめの土地が故郷になるとき
第一章 香港「国片」と変貌する母の表象
第二章 電懋映画から見る香港人意識の形成
第三章 一九六〇年代のマレー半島における中国語映画の製作
終 章 インディペンデント?チャイニーズへ
関连情报
四方田 犬彦 評「従来の香港映画神話を覆す、きわめて興味深い書物」(週間読書人 2014年5月30日)