省笔论 「书かず」と书くこと
本書は、書かないということの研究である。『源氏物語』を中心に、「省筆」(しょうひつ) について論じた。
私达は文章を书くとき、书くことと书かないことを选択している。読者として読む文章もまた、作者によるその选択を経たものである。本书で注目したのは、书かれていないという事态にも二种类あって、ただ书かれていない场合と、书かれていないことがわかるように书かれている场合がある、という点である。
省略を明示することは书物の外でも行われていて、たとえば卒业証书や学位记の読み上げでしばしば「以下同文」という言叶が闻かれるが、その「以下同文」には二人目以降の全文読み上げを省略することと、実际はそこにきちんと文面があることの表明という二つの意図が含まれている。
『源氏物语』には「书かれなかった事」が多い。藤壶との一度目の密通も「宫もあさましかりしを思し出づるだに」と朧気に记されるのみだし、光源氏の死も匂宫巻冒头で「光隠れたまひにし后」とあることで示される。浮舟のその后も描かれることなく物语は终わる。
そして、『源氏物語』にも書かないことを宣言する例が散見される。それが副題に掲げた「「书かず」と书くこと」で、たとえば、若菜上巻に「院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、昔にかはりてまゐるを、人々涙おし拭ひたまふ。あはれなる筋のことどもあれど、うるさければ書かず。」という一節がある。朱雀院の出家をめぐる「あはれなる筋のことども」が、「うるさければ書かず」の言辞のもとに退けられる。ただ書かないのではなく、いわば「書かず」と書いているのである。
一、二例であれば気にもなるまいが、物语中、実に64例に及ぶ省笔の辞を目にし、それらは一体なぜ必要なのかという素朴な问いが生じた。省笔の断り书きは、笔を省くことのみが役割であるなら実は无用のものである。この场面で「书かれなかった事」は无论「无かった事」ではない。そう考えれば、「うるさければ书かず」とは端的に言えば、「あった」事を顕在化させる书き方と言える。
それゆえに、わざわざ書き記す省筆の表現には種々の工夫が凝らされた。「いますこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたううるさくものうければなむ、いままたもついであらむをりに、思ひ出でてなむ聞こゆべきとぞ」(蓬生) という例などは、省筆の理由を頭痛としたものである。
このような事例を集めて考えながら、『源氏物语』はどのように&濒诲辩耻辞;书かれなかった&谤诲辩耻辞;のかという问题に取り组んだ。省笔を叙法として捉え、その役割や効果を考察することで、物语の舞台里を探ってみたいという関心から本书は成っている。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 准教授 田村 隆 / 2017)
本の目次
「书かず」と书くこと
第滨部
省笔论
夕颜以前の省笔
贯之が諫め
卑下の叙法
「ようなさにとどめつ」考
「思ひやるべし」考
&苍产蝉辫;与谢野晶子訳『紫式部日记』私见
&苍产蝉辫;省笔の訳出
「御返りなし」考
第滨滨部
施锭考
村雨の轩端
砚瓶の水
いとやむごとなききはにはあらぬが
「涙」の表记
玉葛の旧跡
関连情报
『省笔论』田村隆 著 / 読売新聞社編集委員 尾崎真理子 評 (読売新聞朝刊 2017年10月8日)
田村隆『省笔论』东京大学出版会 / 中川照将 評 (「図書新聞」第3331号 2017年12月16日)
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