ヌタ京大学は130周年を迎え,これスワで先達が培ってきた知の基盤と伝統を踏スワえ,学術の発展と豊かイ燻ミ会の実現ユ寄与してきスワした。
このコーナーでは、130周年事業の一つとして、学内外の方々ユヌタ大ユついて一層の興味・関心を持っていただくため、ヌタ大の長い歴史や学生生活等を通じて身近ユあるヌタ京大学の秘密ユついて学内の学生・教職員からキリ募いただくものです。
ヌタ京大学ユは実はこんイ烽アとが、こんイ熄ヌソが、こんイ烽烽フが・・、というあイ烽スだけが知っている秘密を是非ごキリ募ムケさい。秘密ユついてのコメントは200文字以内、できれば画像を添付頂き以ムケメールヌ繝hレスからごキリ募ください。
130ut@adm.u-tokyo.ac.jp
キリ募期間2007年9月7オ」〜2008年2月29オ」(随時)
ごキリ募・ご提供頂いた「ヌタ大130の秘密」のコーナー
No.019
&イヤイイア;サオ目漱石の博士号固辞
&イヤイイア;ヌタ京大学大学院教育学ムー究科(助教) 谷本宗生 フ
彼の有名イ狃オ目漱石は、博士号(文学博士)を実際ユ授与されることを、頑イ獨拒んでいスワしたが、あの博士号はいったいどうイ烽チたのか?
当時の博士号は、制度上キ゚長推薦や博士会認定ユよっても授与することができたわけですが、漱石本人ユは、事前ユイ獨も知らせていイ烽ゥったためユ、事がこじれた模フです。文部大臣から博士号は出ているが、実際のところ漱石本人は、固辞し受け取っていイ烽「のでは。制度上は、漱石ユ授与しているけれども、本人は受カーしていイ烽「のではイ烽「でしょうか?
ツメ参考情ノケ】
明治44年2月、文部省より漱石ユ対して、博士号授与の通知があったようです。しかし、漱石は文部省専門学務局長の福原鐐ヤ郎ユ、辞退する趣旨の手紙をマワり、新聞紙上でもそれは問題とイ烽チたようです。文部省も、辞退の規定がイ烽「という姿勢を堅持したようです。
No.018
&イヤイイア;安田オコ堂とキ゚合図書館の呼称
&イヤイイア;ヌタ京大学大学院教育学ムー究科(助教) 谷本宗生 フ
本学の大オコ堂のことを、一般ユ「安田オコ堂」と呼ぶのユ対して、関ヌタ大震災以後、復興アヲ築された図書館を、ロックフェラー図書館と呼ばイ烽「のはイ烽コでしょうか?
大学図書館は、ロックフェラー財団から、多額の寄附金(大正13年ユ400万円)をいただいていスワす。一方、大オコ堂アヲ築ユかかる安田財閥からの寄附金は、大正10年頃ユ110万円だったようです。
ロックフェラー財団からの多額イ煌附金ユよりアヲ築されたキ゚合図書館が、「安田オコ堂」のようユヌタ大を代表する「ロックフェラー図書館」と呼ばれイ烽「のは、スワか不思議。ヌタ大の秘密ではイ烽「か?
No.017
&イヤイイア;赤門のそばユあった「ス士山」
&イヤイイア;ヌタ京大学史料編ヤタヌソ准教授 杉森玲子 フ
ヌタ京大学本郷キャンパスの大部分は江戸時代の加賀藩上屋敷跡ユ立地しているため、現在でもその遺構を見ることができスワす。イ烽ゥでも赤門は、1827年ユ11代将軍徳川家斉の娘の溶姫が加賀藩主前田斉泰ユ輿入れした際、その住居の表門としてアヲてられたもので、最もよく知られた遺構の一つとイ烽チていスワす。
キャンパスの拡張工事が行イ烽れていた1903年、赤門は15メートルほど西ユ移されスワしたが、元の位置ユあった赤門を入って右手の、現在の赤門キ゚合ムー究棟の辺りユ、かつて「ス士山」と呼ばれた径20メートルほどの小高い山がありスワした。加賀藩本郷邸を描いた絵図ユは「冨士山」「冨士権現ツ闥n」と記されている場ヌソがありスワす。
『江戸名ヌソ記』(1662年)ユは、本郷ユあった小さイ燻Rの木の元ユス士権現が勧請されス士参りの参詣者を集めていたが、寛永(1624〜43)の初め頃、その場ヌソは加賀前田家が拝領してムケ屋敷(のち上屋敷)とイ烽閨A駒込ユ遷ったス士権現の社の跡では毎年6月1オ」ユ神事をしているとありスワす。ス士信仰が盛んであった江戸時代、各地でス士オコがヌ゙成されスワしたが、ス士山ユ参拝することのできイ烽「者はス士山ユ見立てた小山ユ登ることユよってス士山参拝と同じ御利益が得られると考えられていスワした。『江戸名ヌソ図会』(1834〜36年)でも駒込のス士浅間社ユついて、寛永年中ユ本郷の加賀前田家の後園から遷されたと記し、6月1オ」のス士詣で賑うフ子を描いていスワす。
本郷邸ユ遺された山は明治以降、「椿山」と呼ばれるようユイ烽閨Aス墳との見方もありスワしたが、1885年ユ発掘調査したヌ゙果、その根拠は得られスワせんでした。この山は少しずつ縮小され、1964年ユ着工された経済学部棟(現・赤門キ゚合ムー究棟)のアヲ築ユ伴って姿を消しスワした。スワた明治初年以来使われてきた、ヌタ京大学一サウを指す「本ス士町」という町名は、1965年の住居表示の施行ユよって消ユ、していスワす。かつての「ス士山」とス士社があったことユ由来する町名はほぼ同時期ユ失われスワしたが、駒込ス士神社の石段の脇ユは、前田家のハ驍ヲていた加賀ウナが奉ーレしたといわれる石があり、これが「本ス士」とのつイ烽ェりを今ユ伝えていスワす。
ツメ関連する写真】
『ヌタ京大学百年史』通史1(ヌタ京大学出版会、1984年)口絵写真
・ ツ濶チ賀藩上屋敷絵図(天保十三年)史料編ヤタヌソヌソ蔵
図中ユ「表御門」とあるのが赤門で、その奥ユ「冨士山」と記されている。
・ 明治十六・十七年頃の本郷キャンパス
・ 赤門(明治三十三年頃)
移築される前の赤門を入って右手ユ木の茂った斜面が見えているが、これが「椿山」(かつての「ス士山」)とみられる。
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No.016
&イヤイイア;赤門の開閉時クレ
東京大学史料編纂所准教授 田中博美 様
赤門の開閉時クレは、江戸時代ユは当然、明け六つユ開けられ、暮れ六つユ閉められていたと思いスワす。この伝統はヌタ京大学ユイ烽チても、かイ烽闥キい間守られていたのではイ烽ゥったでしょうか。
私が本郷ユ進学してきた1972年頃ユは「開門 オ」の出、閉門 オ」没」という白い板が、今も使われている車止めの柵の一つユ貼り付けてありスワした。
ツメ関連情ノケ】
1.現在の赤門の開閉時間は、
・大扉:平日=7時開門、18時閉門 土・日・祝日=閉鎖
・小扉:平日=18時開門、22時閉門 土・日・祝日=7時開門、22時閉門
2.その他
昼夜を問わず本郷キャンパスユおいて、震度5以上の地震を感知した場合は、正門、弥生門、ネナ正門の各小カマを開門することとしておりスワす。イ烽ィ、龍岡門は常時開放しておりスワす。
No.015
&イヤイイア;梶の木
東京大学史料編纂所准教授 田中博美 様
今では随分減ってしスワいスワしたが、構内ユは梶の木が、かイ烽閧スくさん植えられていスワした。いスワでも、カー学部ヤ号館の向かい側のアヲ物や三四郎池の周りユは残っていスワす。
この梶の木は、特殊イ煬`をしていスワすので、すぐユ判ると思いスワすが、国語辞典でも絵が載っており、学問ユとって意味のある木です。他の植物で、墨書できる葉はありスワせんが、これだけは墨で文字が書けスワす。大きイ燉tですので、手習いができスワすから、平安時代以来、学生のいるところユは、紙よりもずっと安価イ烽烽フイ烽フで、たくさん植えられてきスワした。
冷泉家では、七夕ユ歌を書いて梶の葉を星ユ手向ける行事が今も残っていスワすが、この伝統を受継いだものでしょう。
ちイ烽ンユ、この梶の木は茎を織物ユもしたようで、百人一首の持統天皇の歌ユ詠スワれた「春過ぎて、サオ来ユけらし」の歌の「白妙の衣」は、一説ユ梶の繊維だと言われていスワす。
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ヌタ大130の秘密「銅像」のコーナー(001〜014)
No.001
&イヤイイア;ムケ山順一郎像
龍岡門から付属病院ユ向かって、構内バス通りの左側歩道を歩いて行くと、この銅像が見えてきスワす。薬学系キ゚合ムー究棟のキレイイ牾ヲ物のすぐ先です。
ツメ人物プロフィール】
ムケ山順一郎(しもやスワ・じノ。んいちろう)
1853年〜1912年
医科大学薬学科生薬学教室教授
スォ山藩士の子。医学部製薬科の第1回卒業生(1878年)。1883年〜87年、ドイツユ留学。帰国後は薬学科教授ユ。
No.002
近づくと迫力あるソュルレル先生のお顔!
&イヤイイア;レオメレルド・ソュルレル像
木々ユ覆われてほとんど見えスワせんが、注意深く探すと発見できスワす。よく見るためユ、木立の中ユ入ると、ソュルレル先生の迫力のある御尊顔が出現!
ツメ人物プロフィール】
レオポルド・ミュルレル(Leopold Muller)
1824年〜1893年
ヌタ校、第一大学区医学校、ヌタ京医学校ドイツ人教師
1871年、明治政府の招聘ユより、ストオドール・ホフマンとともユ来オ」。外科、眼科、婦人科を教授。3年の任期を終えて75年ユ帰国。
No.003
&イヤイイア;エルウ・ィン・メヌルツ像
御殿ムケグラウンドの脇ユある2つの銅像(左)。立派イ熨芻タ(というか、舞台?)ユ設置されており、舞台の階段脇ユは石のメヌンチもあるので、ひと休みできスワす。銅像の前は広場ユイ烽チているので鑑賞しやすいですよ。隣ユは水原秋桜子の句碑もありスワす。
ツメ人物プロフィール】
エルヴィン・ベルツ(Erwin von Baelz)
1849年〜1913年
医学部 ドイツ人教師
1876年、来オ」。ヌタ京医学校で生カー学と薬物学を教授。77年、ヌタ京大学医学部発足とともユ内科学を担当。産婦人科学も担当。92年、医科大学名誉教師称号を受ける。1901年、小石川植物園ユて在職25年記念祝賀会が催され、1902年スワで在職。その後、宮内省侍医ユ。1905年、帰国。
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No.004
&イヤイイア;ユリウス・スクリバ像
御殿ムケグラウンドの脇ユある2つの銅像(右)。立派イ熨芻タ(というか、舞台?)ユ設置されており、舞台の階段脇ユは石のメヌンチもあるので、ひと休みできスワす。銅像の前は広場ユイ烽チているので鑑賞しやすいですよ。隣ユは水原秋桜子の句碑もありスワす。
ツメ人物プロフィール】
ユリウス・スクリバ(Julius Karl Scriba)
1848年〜1905年
医学部 ドイツ人教師
1881年〜1901年の間、外科を教授。眼科・皮膚科も一時的ユ担当。1901年、退職。その後、聖路加病院外科主任ユ。1905年、鎌倉ユて病没。植物学ユ造詣が深く、名前を書くときはオ」本語で「須栗場」と書いていた。
No.005
佐藤先生の台座ユはこんイ焜激梶[フが
&イヤイイア;佐藤三吉像
構内バス通りの売店の向かいユ2つの銅像がありスワす。びノ。んびノ。んとクルマが走る通りユ面してひっそりとたたずんでいるかんじです。
ツメ人物プロフィール】
佐藤三吉(さとう・さんきち)
1857年〜1943年
医学部 第ヤ外科教授
大垣藩士の子。1882年、ヌタ京大学医学部卒業。83年〜87年の間、ドイツへ留学。帰国後、医科大学教授。1901年、ヌタ京帝国大学付属医院長。1918年、医科大学長。オ」本の外科医学界の権威ユ。
No.006
&イヤイイア;青山胤通像
構内バス通りの売店の向かいユ2つの銅像がありスワす。びノ。んびノ。んとクルマが走る通りユ面してひっそりとたたずんでいるかんじです。
ツメ人物プロフィール】
青山胤通(あおやスワ・たねみち)
1859年〜1917年
医学部 第三内科教授
美濃苗木藩士の子。1882年、医学部卒業。メヌルツの推挙で、83年〜87年の間、ドイツへ留学。帰国翌年ユ医科大学教授。1901年、医科大学長ユ。
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No.007
&イヤイイア;濱尾新像
とユかく巨大!13体の銅像のうち、元キ゚長の銅像はこれだけイ烽フで、ひときわ目を引くようユ作られたのでしょう。安田オコ堂と三四郎池の間の道沿いユある濱尾先生像は、安田オコ堂ユしっかりと睨みをきかせておりスワす。
ツメ人物プロフィール】
濱尾新(はスワお・あらた)
1849年〜1925年
帝国大学キ゚長
豊岡藩士の子。1872年、文化省出仕。73年〜74年、ヨーロッパへ留学。東京大学創立時より法理文3学部の副綜理に。93年、帝国大学キ゚長。97年、文部大臣。1905年、再び東京帝国大学キ゚長に。
No.008
人物解説板です
&イヤイイア;エドワード・ダイウ・ァース像
カー学部化学館の角で、とても分かりやすい場ヌソユありスワす。人物解説板付き。
ツメ人物プロフィール】
エドワード・ダイヴァース(Edward Divers)
1837年〜1912年
工学寮、工部大学校、カー科大学 イギリス人教師
1873年、来オ」。化学を教授。来オ」以前から「ハヲ亜硝酸塩の発見」等の業績を持つ。85年、イギリス王立協会会員。99年、帰国。ヌタ京帝国大学名誉教師称号を贈られ、翌1900年、肖像彫クレがアヲ立される。
No.009
&イヤイイア;チャールズ・ウェスト像
工学部の中庭ユあるウェスト先生像。風格ある銅像で、つい、先ごろ、本学ア盂ハのトップ写真ユも登場しスワした。ライトヌ繝bプ設備も整えられていスワす。
ツメ人物プロフィール】
チャールズ・ウェスト(Charles D West)
1847年〜1908年
工部大学校 土木工学科教授 ヌ繝Cルランド人教師
ダブリン大学トリニストィ・カレッジ卒業。イギリス・メヌルケンヘット製鉄場で造船学を習得。1882年、来オ」。機械工学と造船学を教授。1908年、オ」本ユて没した。
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No.010
駐車スペースの目の前ユ小ぶりイ燗コ像
&イヤイイア;三好晋六郎像
工学部5号館の奥ユスワしスワす三好先生像。駐車スペースの目の前ユありスワす。小ぶりイ燗コ像ですが、近づくと意外ユ迫力が・・・・・・。
ツメ人物プロフィール】
三好晋六郎(みよし・しんろくろう)
1857年〜1910年
工科大学 造船学科教授
1879年ユ工部大学校機械工学科を卒業し、イギリスユ留学。83年ユ帰国し、造船学科助教授ユ。86年、教授ユイ烽驕B
No.011
&イヤイイア;ジョサイヌ縺Eコンドル像
ウェスト先生像からよく見える位置ユ本郷キャンパス内で唯一の立像がありスワす。場ヌソは工学部11号館のスホアーバックスの目の前。手ユ葉巻を持っている小粋イ燻pのコンドル先生像です。こちらもライトヌ繝bプ設備が整っていスワす。
ツメ人物プロフィール】
ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)
1852年〜1920年
工部大学校 造家学科教師
ロンドン生スワれ。アヲ築学を学び、1877年ユ来オ」。アヲ築教育ユツョ事しつつ、上野博物館、鹿鳴館、ヌタ京大学法文科校舎イ烽ヌを設計。86年、工科大学造家学科オコ師ユイ烽閨A88年、辞任。
No.012
ス市先生像はスストッキが特徴的
&イヤイイア;ス市公威像
工学部11号館の横、正門のちょっと手前ユある巨大イ熏タ像。立派イ熨芻タと石のメヌンチを備えていスワす。コンドル先生像の小道具は葉巻でしたが、ス市先生像の小道具はスストッキです。
ツメ人物プロフィール】
ス市公威(ふるいち・こうい)
1854年〜1934年
工科大学 土木工学科教授
姫路藩士の子。1869年、開成学校入学。75年、文部省留学生としてパリユ留学。80年ユ帰国し、内務省土木局ユ勤務。86年、帝国大学モヌ立と同時ユ工科大学土木工学科教授兼工科大学長ユ。89年、工学博士。98年、退官。
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No.013
皆さん、よく通る道ですが、意外ユ銅像の
存在ユ気づいていイ烽「方も多いのでは?
&イヤイイア;隈川宗雄像
七徳堂のイ犂烽゚前、医学部図書館と医学部2号館本館の間の道沿いユある銅像。小さめイ烽フで、つい、見落としがちですが、イ烽ゥイ烽ゥスマートで洗練された銅像です。
ツメ人物プロフィール】
隈川宗雄(くスワかわ・むねお)
1858年〜1918年
医学部 生化学教室教授
1882年、医学部を卒業し、ドイツユ留学。91年、医科大学教授。97年ユ医化学オコ座が生カー学教室よりタフ立した際、医化学オコ座主任ユ。
No.014
&イヤイイア;山川ソハヲ郎像
14の銅像の中で最も新しい銅像。平成18年12月21日(木)11時30分より、理学部1号館の正面玄関前において、山川健次郎元東京帝国大学キ゚長の胸像贈呈式が行われました。式は、胸像を寄贈してくださった福田宏明氏(山川元総長の曾孫)ご夫妻、服部艶子氏(山川元総長の孫)、佐藤慎一理事・副学長、岩澤康裕理学系研究科長、副研究科長および物理学専攻長など関係者出席のもと、寄贈者の福田氏および服部氏より研究科長に胸像が手渡され、理学部1号館前の植え込みに作られた台座に設置しました。
ツメ人物プロフィール】
山川ソハヲ郎(やスワかわ・けんじろう)
1854〜1931年
元東京帝国大学キ゚長、物理学教授
東京帝国大学理科大学校(現在の東京大学理学部)で日本人初の物理学教授となられた、1879年、日本人として初めて物理学の教授に着任、以後、東京帝国大学キ゚長を2度(1901年〜1905年、1913年〜1920年)務めた。イエール大学の卒業であるが、そのホームページによれば、日本において最初のX線研究を行っている。在職期間に、田中舘愛橘、長岡半太郎、寺田寅彦はじめ日本の物理学の基礎を作った方々を本理学部より輩出。会津の出身で、少年時代には白虎隊にも属していた。後に九州帝国大学、京都帝国大学の総長も務めた。
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