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资料1:日本の女子高等教育の歴史

1871(明治4)年の冬、欧米视察の岩仓具视大使一行とともに、留学生58人が横浜港を出発した。この留学生58人のなかに、将来の女子教育にそなえて、当时7歳に満たなかった津田梅子ら女性5名がふくまれていた。男子留学生の场合はできるだけ迅速に必要な専门知识や技术を吸収させ、帰国后にそれを活用するのが目的であったが、女子の场合は、7歳から14歳の少女に対し、気长に10年间の西洋流の教育を受けさせようとした一种の培养実験であった。この国策としての留学を决めた北海道开拓次官であった黒田清隆がヨ-ロッパ各国を回った际に、アメリカの女性の地位が高く、环境に恵まれていたことに深く心を打たれたからというのが定説になっているようだ。しかし、最年长の14歳の2人は健康上の理由で翌年帰国している。10年経った1881(明治14)年、永井繁子が帰国し、翌年の1882年に津田梅子と山川捨松が帰国した。留学の成果はというと、永井繁子と山川捨松の场合はさっさと结婚をして家庭に入ってしまった。津田梅子は日本语を忘れ、また、日本の现実社会に适応するものが何もなく、女子留学生の帰国を待ち受ける国家的仕事は何も用意されていなかった。梅子は伊藤博文の娘の英语の家庭教师をしていたが、再度アメリカに留学し、本格的に女子教育に身を捧げようと决心する。梅子はプリンマ-大学で生物学を修め、専门誌に连名で论文も発表している。しかし、生物学者としての道に进まず、遅れた日本の女子教育のために尽くすことを决意し、日本にもどり、女子英学塾(现津田塾大学)を开いた。もし、梅子が生物学者として日本で活动する场があったら、その后の日本女性科学者に少なからず影响をおよぼしたかも知れない。

明治维新后、日本は西洋の科学技术の移植を目指して、国家をあげて科学者?技术者の养成を行ってきたが、その中心となったのは1877(明治10)年に创立された东京大学を笔头とする7つの帝国大学であった。1876(明治19)年に公布された帝国大学令には女子の入学を禁じているわけではなかったが、入学资格が高等学校卒业生に限られていたため、现実には女子に入学する道はなかった。

女子の高等教育の始まりは、1872(明治5)年学制が発布されてからである。この年に东京神田に官立东京女学校が生まれ、一般教养に重点を置いたわが国の女子教育が始まった。しかし、この学校は1877(明治10)年には闭锁されてしまう。一方、学制は1879(明治12)年には教育令に変わり、これ以降男女别学を原则とする教育体制が作られていく。

东京女学校に続く公の女子教育机関として、1874(明治7)年に东京女子师范学校が设立された。この学校は1885(明治18)年に东京师范学校に吸収され、その女子部となる。さらに、翌年公布された师范学校令に基づき、东京师范が高等师范となったのにともない、女子部も高等师范女子部となる。また、各県には女子师范学校あるいは师范学校女子部が徐々に整备された。そして、1890(明治23)年には东京高等师范から女子部が分离独立し、东京女子高等师范学校(东京女高师、现お茶の水女子大学)となったのである。次いで、1908(明治41)年には奈良にも女子高等师范学校(现奈良女子大学)が置かれた。2つの女高师は戦后の新制大学発足まで、女子の最高教育机関としてその役割を果たした。

东京女高师では创立7年后には、文科と理科に分けて教育を始め、さらに、1905(明治38)年からは4年间の普通科の上に2年间の研究科(文科、理科、家事科)が设けられ、より専门性の高い教育を目指した制度改革がなされるが、研究科の定员は1名にすぎなかった。しかも、女高师の目的は女子教员の养成にあったので、卒业生には教职につく义务が课せられており、女性科学者として独自に研究するには并々ならぬ努力を要した。

このような官立学校のほかに、明治30年代に入ると、私立の女子教育机関が芽生えてくる。1900(明治33)年には、吉冈弥生の东京女医学校(现东京女子医大)、津田梅子の女子英学塾(现津田塾大学)が诞生し、翌年には日本女子大学校が创立された。1918(大正7)年には安井てつにより东京女子大学が创立されている。

大正时代に入ると、教育界も一変していった。「女人禁制」であった旧帝国大学であったが、1913(大正2)年东北帝国大学理科大学开学にあたって、女子の入学が初めて认められた。东北帝国大学では入学资格を高等师范卒业生や中等教员免许资格合格者などに広げ、女子入学の禁止条项がないことから女子にも入学を许可することになったのである。この动きを推进したのは初代学长泽柳政太郎や数学の林鹤一教授、化学の真岛利行教授らで、ヨ-ロッパ游学中各地ですでに女子学生の存在が当然であることを知っていた人たちであった。そして、5人の女性が受験し、东京女高师の牧田らく(数学科)と黒田チカ(化学科)、日本女子大学の丹下ウメ(化学科)の3人が合格した。黒田チカは『妇人之友』で入学当时を、「新闻は日本ではじめての女子大学生を冷やかし半分に书く、町へ出ると人々の视线を浴びるという、今から思えばなかなか女性の立场の认められていない时代でしたが私どもは意気込みに溢れておりました?????」と回想している。

また、植物学者で日本で最初の女性博士である保井コノは、博士号を取得した际に、妇人雑誌『主妇の友』のインタビュ-に応じて、「私は幸いに、何者にも烦わされず、自分の好きな道をコツコツ歩いてまいりましただけでございまして、名を求めず、地位も希わず、ただ自分の仕事が残ってゆけば、それだけで、自分は十分満足してゆけると信じております」と语っている。この当时の女性科学者の置かれた状况についての情报が、『妇人之友』や『主妇の友』等の女性雑誌の中で得られるという寂しい実态がある。

その他にも大正から明治时代になって活跃した女性科学者はかなりいる。初めての女医第一号の萩野吟子、女性初の农学博士の辻村みちよ、女性で初めて物理学を専攻した原子核物理学者の汤浅年子等々である。その他、日本人と结婚したアメリカ人の海洋生物学者団ジ-ンがいた。

戦后の1948(昭和23)年、新学制による学制改革により、女子も希望する大学へ入学可能となった。また、农林省林业试験所、水产研究所などの行政官庁その他の研究所にも女子が迎えられた。戦时中に急に设置された専门学校理科のなかには、津田塾専门学校のように新设された物理?化学科、数学科のうち、新制大学移行の际に物理?化学科が廃止されたものもある。あるいは、都立女子専门学校が都立大学と合併されたように、他校と併合され、共学になったところもある。また、帝国女子医専?薬専?理専は女子教育の场として独特の理想をもって出発したが、新学制にあたり东邦大学と改称され、共学となった。