诸子百家の一つ、道家。その代表的古典である『荘子』には、「道は屎尿にあり」という言叶が登场します。
道家が万物の原理と捉える「道」が大小便にあるとは、どういう意味なのでしょうか。
『荘子の哲学』の着者である中岛先生に解説してもらいましょう。
中国哲学&迟颈尘别蝉;粪尿
道家思想の祖?荘子が残した「道は屎尿にあり」とは?
中岛隆博
NAKAJIMA Takahiro
東洋文化研究所 教授
排泄にも技があり「道」がある
道家が唱える「道」には多くの意味がありますが、荘子の「道」は、技でもあり、技を含む文化的なものだと言えます。たとえば料理人が熟练の包丁さばきができるのは「道」を得ているからです。职人に限らず、一般の人も生活のなかで多様な技を用いています。洗面所では歯磨きの技、台所では料理の技、风吕场では体を洗う技&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;。「道」はあらゆる场面や事物に染みわたり、屎尿にさえ入り込んでいます。人はそこから逃れられません。文化によりやり方が変わる排泄にも技があり「道」がある。でも赤ちゃんは别です。赤ちゃんは好きなときに粪尿を垂れ流しますが、技がある大人は催したらトイレに行き、便器に用を足し、纸で拭く。これもまた「道」を得ているということです。
近代の歴史を见ると、植民地化された地域の人々の表象に粪尿のメタファーがしばしば使われました。韩国の文学者ファン?ホドクは「便秘と下痢」と题した论文で、监狱としての植民地における抑圧された人々の排泄を描く文学作品を论じました。粪尿の问题は植民地文学にも染み通っています。中国の陈凯歌监督の映画『子供たちの王様』には、山奥に住む少数民族の亲子が登场します。言叶を话せない父の浑名は「软便」。息子は文化に强い憧れを抱いています。牛の粪で黒板に模様を描く牛饲いの少年も登场します。模様とはもちろん文化的なもの。至るところに「道」は浸透しています。
受动性の彻底で自由の境地に
「道」は欲望を唤起し、欲望が文化を発展させます。文化によって技が得られるし、トイレの使い方も覚えられます。でも、人は「道」から解放されてよいのではないか。そう荘子は问いかけます。人は天から下がる纲で逆さ吊りになっていて、それを断ち切ったところに自由がある。荘子は天から自由になる人が见たいし、自身も自由の境地に入りたかった。でもそれは困难で、どこかで諦めて受动的にならざるを得ません。受动性の彻底こそが人に残された方法だと荘子は考え、胡适はそれを、荘子の达観主义だと指摘しました。多くの人は能动性や努力を重视しますが、そこに冷や水を浴びせるのが荘子です。
私は十代の顷に「道は屎尿にあり」に出会い、衝撃を受けました。头が殴られて揺らいだ感があり、自分が浸かっている清洁さの文化を疑うべきだと思いました。清洁さや纯粋さは文化のなかでも强力なもの。荘子はそうした一元化に気をつけろと警告しています。私自身も文化と不可分な大学の世界にいてうんざりすることがありますが、そんな折に儒家とは异质の想像力を与えてくれるのが荘子です。
近年、台湾で新道家が登场しています。人が起こした环境问题の危机に、荘子を読み直すことで対応しようという动きです。近代以前には神や仏など人を超越した存在に対する感受性が强くありましたが、次第にそれが弱まり、人间中心主义が强くなりました。神を持ち出さずに人间中心主义を批判できる荘子は、现代にも示唆を与えていると思います。