犬にまつわる东大の研究
獣医外科学、动物行动学、ロボット工学、
考古学、年代测定学、法学?动物介在学、
獣医疫学、古典文学、现代文学。
9分野の先生に、犬にまつわる研究について绍介してもらいました。
犬と考古学
本郷で出土した犬の骨から见える江戸时代
阿部常树
ABE Tsuneki
元?埋蔵文化财调査室员
(立正大学文学部非常勤讲师)
かつて加贺藩邸があった东大本郷キャンパス。构内を発掘すると江戸时代の暮らしを映す遗物がたくさん出てきます。
埋蔵文化财调査室で多くの遗跡に関わってきた阿部先生に、犬に関してわかっていることを教えてもらいました。
私は、遗跡から出土する贝殻や鱼骨、犬や猫をはじめとする哺乳类や鸟类の骨などから、当时の人々の生活や人と动物との関わりについて研究しています。动物考古学という研究分野です。特に、近世を中心に研究をしています。
大名屋敷の犬と町犬の交雑で大型化?
当时の大名屋敷の塀には穴が开いているなど、比较的动物の出入りが简単だったようで、さらに、犬は、当时、放し饲いが基本であったこともあり、胜手に屋敷のなかに入っていたようです。一方で、屋敷では海外から购入した大型の狩猟犬が饲われていました。そんな町で暮らしている犬(町犬)と狩猟犬が交配することも多かったようです。そのことが、犬の大型化につながったとされています。実际に遗跡から出土する犬は、17世纪に30肠尘级が多かったのが、18世纪には45肠尘级が主となり、19世纪には50肠尘级が増えています(小舟みなみ「近世江戸遗跡出土のイヌについて」2011年度日本动物考古学会発表より)。
さて、昔から日本の小型犬といえば、狆です。徳川纲吉が爱し、ペリーが母国に持ち帰り、滝沢马琴も可爱がった狆。その名の由来は「ちいさいいぬ」&谤补谤谤;「ちぬ」だと言われます。和製汉字の「狆」は、大きい犬と小さい猫の中间の獣ということで作られました。なお、当时は、奈良时代に中国から来たとされる犬种としての「チン(Japanese Chin)」だけでなく、チワワなどの矮小犬全般を「狆」と呼んでいました。现在のところ、江戸遗跡で犬种としての「チン」と思しき骨が出土しているのは、私の知る限りでは江东区の云光院遗跡だけです。ただ、本郷キャンパスの医学部附属病院入院栋础地点(大圣寺藩邸跡)でも、これとよく似た形状の骨が出ています。体高は约31肠尘ですので、少なくとも「狆」であることは确かです。
ゴミとして捨てられていた本郷の犬たち
江戸大名屋敷跡からは幼体から老体まで犬の骨がたくさん出土します。丁寧に埋葬されたものはあまりなく、そのほとんどはゴミとともに出てくるものばかり。主に屋敷内に栖みついていた町犬が死んでゴミ捨て场に捨てられたものと思われます。本郷キャンパスもその例に漏れません。
当时、死んだ犬や猫をゴミとして捨てるなというお触れが幕府から出ていました。里を返せば、よく捨てられていたということです。また、水戸藩の史料では、火事で兴奋した犬が女中を噛んだのを机に、屋敷内にいた犬を毒馒头で駆除したという记録があります。加贺藩邸でも同様のことが行われ、廃弃されていたことも考えるべきかもしれません。
そのような捨てられた犬の骨のなかには、解体痕のあるものもあります。本郷キャンパスでも、工学部1号馆地点(加贺藩邸跡)の大型のゴミ穴から出土しています。鹰の饵にした可能性や、隠れて藩士が食べた可能性などが考えられます。ただ、このゴミ穴からは犬の骨が1449点出土していますが、このような例は1点だけで、さらに本郷キャンパス全体でもレアなケースです。
むしろ、ほとんどの犬は、屋敷内に栖み付いていただけのもので、参勤交代で&濒诲辩耻辞;単身赴任&谤诲辩耻辞;してきた藩士たちにとっての&濒诲辩耻辞;同居人&谤诲辩耻辞;で、癒しの対象として可爱がられていたのかもしれません。