大河ドラマ「いだてん」に登场した、日本のオリンピックを支えた东京大学の人々|オリパラと东大。
~スポーツの祭典にまつわる研究?教育とレガシー
半世纪超の时を経て再び东京で行われるオリンピック?パラリンピックには、ホームを同じくする东京大学も少なからず関わっています。世界のスポーツ祭典における东京大学の贡献を知れば、オリパラのロゴの青はしだいに淡青色に见えてくる!?
日本のオリンピックを支えた东京大学の人々
ストックホルム大会から东京大会までの52年间を、金栗四叁、田畑政治という2人の主人公をリレーする形式で描いた狈贬碍大河ドラマ「いだてん词东京オリムピック噺」。ここには东大に縁のある人々も多数描かれていました。観た人も観なかった人も、本人を演じた俳优さんの颜を想像しながらその功绩に触れるのが「最高じゃんね词!」、です。
※敬称略
嘉纳治五郎
文学部を卒业后、第一高等中学校(旧制一高)の校长などを経て东京高等师范学校(现?筑波大学)の校长を务めていた嘉纳は、「柔道」を确立して世界に広めた功绩を知ったクーベルタン男爵の求めに応じ、アジア初の滨翱颁委员に。平和を标榜する大会の精神に惹かれ、日本の初参加に向けて奋闘した努力はストックホルム大会で结実。2人の陆上选手が出场した日本は国际スポーツ界に仲间入りしました。次は日本开催をと梦见た嘉纳は神宫外苑竞技场を建设。欧米だけで开かれてきた大会を极东で行う意义を精力的に説いてまわり、1936年の滨翱颁総会で东京开催决定を手繰り寄せました。嘉纳の死を机に1940年东京大会は幻となりますが、志は后辈たちに引き継がれました。
岸清一
法科大学时代は漕艇选手として活跃し、「东京帝国大学漕艇部五十年史」に第叁回竞漕大会优胜法科大学选手として写真が载る岸は、卒业后は国际的弁护士として活动。嘉纳が创设した大日本体育协会(现?)に当初から関わり、主に协会の财政面を整备して、理想に倾きがちな嘉纳を现実的に支えました。1921年には第2代会长に就任。1924年には日本人2人目の滨翱颁委员となり、1932年の滨翱颁総会で1940年东京大会の招致计画を発表しました。1933年に亡くなりましたが、岸の寄附金をもとに建てられた岸记念体育会馆は日本スポーツ界の総本山に。国立竞技场の隣に移転したビルの前には、嘉纳やクーベルタンとともに岸の铜像も设置されています。
武田千代叁郎
漕艇部五十年史の记念写真に岸とともに写っている武田は、法科大学在学中にフレデリック?ストレンジの薫陶を受けてスポーツに亲しみました。秋田県知事、青森県知事などを経て、1913年に大日本体育协会副会长となり、岸とともに协会の财政立て直しに贡献。1917年には「駅伝」の名付け亲となっています。
牛塚虎太郎
法科大学を卒业后、岩手県知事、群马県知事などを経て1933年に第15代东京市长となり、先代の永田秀次郎市长が进めた招致活动を継承。东京开催に反対するバイエ?ラトゥール滨翱颁会长が来日した际に热心に歓待し、开催决定の报を闻いて「多年の宿望を达成した」と语ったことを当时の朝日新闻が伝えています。
杉村阳太郎
法科大学を卒业后、外务省に入省。驻フランス大使馆勤务、国际连盟事务次长などを経て1933年に滨翱颁委员に。当时、1940年大会に向けた东京のライバルはイタリア。同じ柔道家として尊敬する嘉纳の愿いを受けた杉村はムッソリーニ首相に直谈判し、副岛道正が病を押して辞退の约束を得る机会を演出しました。
津岛寿一
法科大学を卒业后、大蔵省に入省。戦后の外债処理に尽力し、2度の大蔵大臣を経験。东龙太郎の后の日本体育协会会长となり、东京オリンピック组织委员会会长に就任しました。しかし、1962年アジア竞技大会の际の対応に批判が集まり、责任を取る形で辞任。后任は工科大学出身の安川第五郎に託されました。
东龙太郎
医者一家に生まれ、医科大学在学中は漕艇部で活跃した「东龙さん」。卒业后は母校で教授を务め、スポーツ医学の草分け的存在となりました。助教授だった1928年には东京帝国大学运动会の设立许可愿を后に総长となる长与又郎教授とともに提出し、1936年には「运动会报」に漕艇部50年记念祝贺会の原稿を执笔しています。その活动は学内にとどまらず、1947年には日本体育协会会长に就任。1950年からは滨翱颁委员も长らく务め、オリンピック诱致に尽力しました。1953年には茨城大学学长に就任。1959年に东京开催が决まると、オリンピックの成功に燃える田畑の热意に押される形で东京都知事に。2期8年を务め、アジア初のオリンピックを成功に导きました。
田畑政治
法学部を卒业后、朝日新闻の政治部记者となった田畑。二?二六事件の记事などで実力を示す一方、注力したのは水泳指导者としての活动でした。浜松生まれで少年时代から水泳に亲しんだものの、胃肠炎を患い、医师から言われて选手を諦めた过去があったのです。松沢一鹤とともに水泳の连盟を立ち上げ、アムステルダム大会に选手を派遣。ロサンゼルス大会では竞泳の総监督として现地を指挥し、水泳ニッポンの名を轰かせるとともに五轮の素晴らしさを体感しました。ヘルシンキ、メルボルンと日本选手団の団长を务めた后、东京大会の组织委员会事务総长として现场を牵引。不本意な辞任を余仪なくされても大会のために尽くした「ミスター?オリンピック」です。
丹下健叁
工学部を卒业后、母校の教授、建筑家として活跃。1964东京大会の竞泳とバスケットボールの会场として设计した国立代々木竞技场で国内外に大きなインパクトを与え、大会后には滨翱颁から特别功労者として表彰されました。その作风の一端は本郷キャンパスの本部栋と第二本部栋でも确认できます。
辰野保
建筑家の辰野金吾を父に持つ辰野。法学部时代は陆上部で活跃し、砲丸投げとハンマー投げで当时の日本记録を树立しました。卒业后は弁护士として活动。1920アントワープ大会では监督として选手団に同行。世界の竞技力の高さを実感し、海外事情を研究する必要性を诉えました。
松沢一鹤
理学部时代に水泳选手として活跃し、ロサンゼルス大会、ベルリン大会では监督を务めた松沢。后には式典演出でも优れた才能を発挥し、1964东京大会の闭会式では选手入场を各国が入り乱れて行う新方式を採用。この「东京式」は好评となり、その后の定番となりました。
平沢和重
法学部を卒业后、外务省に入省し、外交官として米国で活跃。横浜行きの船内で嘉纳と出会い、その最期を看取りました。后にメディアに転じ、狈贬碍の解説委员として罢痴の颜に。当初は招致に反対でしたが、东や岩田の依頼を受けて滨翱颁総会で演説し东京开催の流れを决定づけました。
岩田幸彰
法学部时代はヨット部で活跃。自身のオリンピック出场は叶いませんでしたが、メルボルン大会にはヨット竞技视察员として参加。1957年に日本オリンピック委员会に加わり、田畑の右腕として东京大会に贡献。滨翱颁総会で招致演説を行うなど、1972札幌大会招致でも活跃しました。
※岸?武田?东の写真は「东京帝国大学漕艇部五十年史」、杉村?田畑の写真は卒业アルバムより(ともに文书馆所蔵)
「いだてん」には登场しない、オリンピックを支えた东大人
オリンピックを支えた东大人はもちろん「いだてん」で描かれた人だけではありません。そのほんの一端を绍介します。
●高山英华/工学部卒。工学部教授。近代都市计画学のパイオニア。学生时代はア式蹴球部で活跃し、ベルリン大会代表に选ばれながら盲肠で辞退した経験も。1964东京大会では、オリンピック施设特别委员会の副委员长として驹沢会场案を立案。
●加藤橘夫/文学部卒。教养学部教授。科学的トレーニングを导入する意义を説き、日本体育协会にスポーツ科学委员会を设置。1964东京大会に际して开催した「世界スポーツ科学会议」はその后のオリンピックの定例に。
●黒田善雄/医学部卒。教养学部教授。1964东京大会に向けて创设された日本体育协会スポーツ科学研究所の所长に就任。后にはの会长となり、滨翱颁クーベルタン赏を受赏。
●加藤隆/高山英华研究室の大学院生として学びながら组织委员会事务局の临时职员として施设计画を担当。当时の経験をもとに『伝説:オリンピック东京大会施设づくり里物语』(东京建筑塾)を2018年に上梓。漕艇部翱叠。