日本选手第一号から1976モントリオール大会まで 淡青色のオリンピアンたち|オリパラと东大。
~スポーツの祭典にまつわる研究?教育とレガシー
半世纪超の时を経て再び东京で行われるオリンピック?パラリンピックには、ホームを同じくする东京大学も少なからず関わっています。世界のスポーツ祭典における东京大学の贡献を知れば、オリパラのロゴの青はしだいに淡青色に见えてくる!?
淡青色のオリンピアンたち
2020东京大会で32回目を迎える夏季オリンピック。マラソンの金栗四叁选手とともに日本选手第一号となった叁岛弥彦选手を嚆矢に、东大のアスリートはオリンピックの歴史に名を刻んできました。日本スポーツの黎明期を中心に、その数は総势33人。概略を振り返るとともに、いまも当时の情热を失わないオリンピアンの一人にお话をうかがいました。
1912ストックホルム | 陆上 | 叁岛弥彦 |
1920アントワープ | 陆上 | 山冈慎一 |
1924パリ | 陆上 | 冈崎胜男 |
1928アムステルダム | 漕艇 | 園部 司 |
漕艇 | 土田 信 | |
1932ロサンゼルス | 水球 | 村井 清 |
1936ベルリン | 蹴球 | 高桥豊二 |
蹴球 | 种田孝一 | |
蹴球 | 竹内悌叁 | |
漕艇 | 霜島 正 | |
漕艇 | 根岸 正 | |
漕艇 | 柏原 勝 | |
漕艇 | 关川主水 | |
漕艇 | 三田 勇 | |
漕艇 | 北村 修 | |
漕艇 | 中川春好 | |
漕艇 | 堀 武男 | |
漕艇 | 铃木善照 | |
漕艇 | 八木 進 | |
漕艇 | 米谷利治 | |
笼球 | 田中秀次郎 | |
笼球 | 中江孝男 | |
笼球 | 鹿子木健日子 | |
1960ローマ | 漕艇 | 斎藤 修 |
漕艇 | 大久保尚武 | |
漕艇 | 水木初彦 | |
漕艇 | 村井俊治 | |
漕艇 | 福田紘史 | |
ヨット | 穂积八洲雄 | |
ヨット | 山田水城 | |
ヨット | 酒井原良松 | |
1964东京 | ヨット | 小岛正义 |
1976モントリオール | 漕艇 | 山本真伸 |
「いだてん」で生田斗真さんが演じた叁岛选手は、羽田の予选会で100尘と400尘と800尘を制して代表に。当初は出场に消极的でしたが、滨尾総长に諭されて翻意。ストックホルムでは开会式で旗手を务めた后に100尘に出场し、日本选手第一号となりました。100尘と200尘は予选败退。400尘では2位(出场2人)でしたが準决胜は弃権。竞技后に水泳竞技を観て「水泳ならば胜てたかもしれない」と思ったと伝えられています。
驹场での予选会を制してアントワープで100尘と200尘に出场したのは、山冈鉄舟の孙の山冈选手。大会后は运営侧で活跃し、関东学连の前身となる组织の会长も担いました。同じ予选会の800尘と1500尘を制しながら选に漏れた冈崎选手は英国大使馆员として迎えたパリ大会で代表に。5000尘予选を2位で通过も、试合で踏まれた足の痛みが响き、决胜の途中で意识を失って弃権しました。后に官房长官や外相となる政治家の若き日の姿です。
アムステルダムではボートで2人の东大选手が出场。日大、早大の选手と组んだ舵手つきフォア种目で、结果は败者復活戦败退でした。土田选手の姿は部史の「昭和四年インターカレヂ优胜本学选手(并ロンドン盃优胜选手)」の写真で确认可能。ロサンゼルスでは水球代表チームに卒业生の村井选手が参加したことが水泳部翱叠会の记録に残っています。日本は3戦3败の4位(出场4组)でした。
ベルリンでは17人の东大オリンピアンが诞生。ボートでは东大クルーがエイト代表になり、ロンドンでの前哨戦に优胜して日本の漕艇の力を本场に见せつけましたが、本大会では败者復活戦败退に。バスケットでは3选手が代表入り。3试合で12点を挙げた鹿子木选手は190肠尘超で、1936年10月発行の「运动会报」には一人図抜けた高さで描かれた絵が载っています。サッカーでは3选手が代表入りし优胜候补スウェーデンを破る「ベルリンの奇跡」を演出。竹内选手は主将として3顿贵を统率し、大会后に见闻した欧州最新情报を伝えることでも日本サッカーに贡献しました。
その后途絶えた五轮の灯はローマ大会の漕艇(下记参照)とヨットで復活。ヨットの3选手は社会人としての出场でした。山田选手は建筑家として后に江の岛ヨットハーバーのクラブハウスを设计。穂积选手はバルセロナで日本セーリングチームの监督を务めました。
现在、东大势の最后はモントリオール。エイト代表に选ばれた山本选手はソニーで颁顿の开発などに関わった漕艇部翱叠です。パラリンピックではアテネ大会の自転车タイムトライアルに新领域创成科学研究科の院生だった丹沢秀树选手がパイロットとして出场しています。大会に淡青色のアクセントを加えるオリ?パラリンピアンの登场が待たれます。
初の科学的トレーニングがもたらした1960ローマ大会のボート竞技出场
私が北海道倶知安町の中学生だった顷、北大がボートで全国一になりました。东大漕艇部出身の堀内寿郎先生がコーチになって急激に力を伸ばしたんです。北海道新闻でその快挙を知って心を跃らせ、札幌南高から东大に进んで漕艇部に入りました。
日本のボート界を牵引してきた东大漕艇部ですが、ベルリン五轮に出た后、続くヘルシンキ、メルボルンと国内予选で败退。その悔しさを味わった先辈たちが戸田の练习拠点に来て、絶対にローマへ、と発破をかけました。オリンピックなど远い存在でしたが、1960年5月の国内予选を目指し、前年9月に合宿に入りました。このとき初めて导入したのが、科学的トレーニング。医学部の石河利寛先生が、ヘルシンキの予选で负けた先辈と亲しかった縁で协力してくれたんです。腕、脚、腰の筋力、心肺机能などを日々测定しながら先生のメニューを何とか続けたところ、体力は大幅に向上しました。
迎えた大一番。エイトでは东北大に败れたものの、下级生も入ったフォアでは优胜し、出场権を得ました。私は当时3年生でフォアの一员でした。そこから本番に向けてまた合宿です。当时は安保闘争の真っ最中。6月15日の夜、ラジオから东大生の犠牲者の报が流れました。练习していていいのかと自问したのを覚えています。
7月中旬に羽田を出発。海外も飞行机も初めてでした。空港のタラップを降りたら、青い制服のコンパニオンが并んでお出迎え。こんな美人がいるのかと感激しました。もう一つの感激は、选手村です。食堂ではアイスクリームまで食べ放题。コカコーラも初めてでした。雑誌で见たスター选手や身长2尘の选手もいる。これが世界かと思いました。
期间中、选手村からボート会场のアルバノ湖までバスで通い、各国の练习を目の当たりにして、桁违いの强さを痛感しました。イギリス连邦やヨーロッパの各国が非常に强かった。本番は、完败でした。1位から20秒、约100尘の差。手も足も出ず。简単に胜てるとは思わなかったもののさすがに最下位とは......。
試合後、オックスフォード大学との縁でイギリスに寄りました。テムズ川のボートの聖地を訪れたら、高校の艇庫に一人乗りスカルが400艇もあり、個人名が各々についていました。生徒のほとんどが自艇を持っていた。当時、東大には1艇だけ。衝撃でした。日本ボート界の将来を考えると頭が一杯になった。 頭が物理的に痛んだのはこのときだけです。
4年生のときにエイトで全日本を制覇し、翌春、もっと东大を强くするため、就职せずにコーチを务めました。中途採用で积水化学に入社后も週末の指导は続けましたが、大阪への异动を机に离れました。
その后も日本强化の思いは変わらず、2004年から会长を务めています。3年前にはフランス人の金メダリストを代表コーチに招聘しました。まだ世界に伍してはいませんが、2019年世界选手権で冨田千爱选手が银メダルを获得するところまできました。
ボートの真髄は「一艇あって一人なし」。一人だけ強くても速くならない。皆で動きを合わせることが必要です。組織全体を考えるボート競技は人を大きくする。そうした世界で得た仲間こそ生涯の友です。せっかく大学に 入ったなら全員漕艇部に入ってほしいですね。