内科医は东大病院を休职して「空飞ぶヨット」で江の岛を目指した|川田贵章さん|オリパラと东大。
~スポーツの祭典にまつわる研究?教育とレガシー
半世纪超の时を経て再び东京で行われるオリンピック?パラリンピックには、ホームを同じくする东京大学も少なからず関わっています。世界のスポーツ祭典における东京大学の贡献を知れば、オリパラのロゴの青はしだいに淡青色に见えてくる!?
卒業生 X 夢 |
「空飞ぶヨット」で江の岛を目指した
川田さんは、セーリング竞技で2020东京大会出场を目指していた东大医学部の卒业生です。种目はフォイリングナクラ17级。闻き惯れませんが、オランダのというメーカーが製造した艇を男女2人が全身で操るダイナミックな竞技だそうです。
「双胴艇の底にフォイルという水中翼がついていて、海面を滑空しながら进むので、「空飞ぶヨット」と呼ばれていますね。时速50办尘ほど出ることもあり、东京大会で行われるセーリングの10种目中で最速を夸ります」
お父さんがヨット乗りだったことから小3のときに地元横浜の市民ヨットクラブに入り、麻布高校3年时には一人乗り种目で国体と全日本选手権を制覇する快挙を成し遂げた川田さん。大学时代には470级という种目で活跃して世界选手権に出场しましたが、北京オリンピックには出られませんでした。
「1年休学して挑んだんですが、最终选考で败退しました。そこで竞技からは引退。未练はありましたが、本気で挑戦してダメだったので、もう医师の勉强に本腰を入れようと思ったんです。父が肾臓内科医だったので、自然に自分もその道に进みました」
卒业后は、千叶での研修医生活を経て、东大病院のに勤务。内科医として働きながら、新しい家庭も筑き、セーリングでは审判として活动する日々を送りました。傍目には顺风満帆に见えますが、医师として患者さんたちと接する毎日の中で、本人の内部にはもやもやした思いが大きくなっていたそうです。
「一回切りの人生なのにこのままでいいのか、といつも自问していました。なんだか苦しそうだよ、と妻にも言われて、决心したんです」
叶えられなかったオリンピック出场の梦を追うため、2016年に东大病院を休职。竞技復帰当初は49别谤级というクラスに焦点を当て、高校生选手と组んだ川田さんですが、1年后に大学进学を决意した相棒に振られ、路线変更を余仪なくされます。そこで声をかけたのが、现在の相棒である梶本和歌子选手でした。
「ロンドン大会では470級で出場し、世界ランキング1 位になったこともある実力者です。リオのナクラ17級で出場を目指していたこともプラスに働くと思いました」
500万円ほどする競技用の艇2隻とコーチ用のゴムボート1 隻、1 本100万円ほどするマスト6本、北京大会の金メダリストをコーチにつける人件費、世界各地を転戦する旅費や艇の輸送費……と、オリンピックを目指す選手の支出は膨大で、東大病院時代に稼いだお金はすぐに底を尽きました。検診業務や訪問診療など、医師だからできるアルバイトを週2 ~ 3 回こなしながらスポンサーを探し、苦労の末にミキハウスと契約したのが2017年4月のこと。以来、梶本選手とともに、一つしかない日本の出場枠を得るための努力を続けてきました。
3大会の合计ポイントで竞う选考レース。日本チーム内トップの位置で临んだ最后のメルボルン大会(~2月15日)では、出场権を争っていたライバルチームの后尘を拝し、惜しくも出场は叶いませんでした。しかし、川田さんにしかできなかったその挑戦は、多くの人々を确実に勇気づけました。ゴルフで芝を読むように、セーリングで风と潮を読む力を培ってきたドクター?セーラー。その力は、聴诊器で患者さんの状态を的确に読み取る际にも大いに発挥されることでしょう。