『吾辈は猫である』に见る「皮肤」の「彩色」の政治学 | 広報誌「淡青」37号より
「皮肤」の「彩色」の政治学
东大で、猫に関连した文学作品といえば、やはり『吾辈は猫である』でしょう。
夏目漱石研究の第一人者である小森先生が、登场する猫たちの名前と毛の色の関係を発端に、日清戦争、日露戦争、「黄祸论」から帝国主义までに至る人类の歴史を読み解きます。
猫たちの毛は人种の别を意味している!?
猫と日本文学
小森阳一/文 Yoichi Komori 教授 |
漱石夏目金之助(一八六七~一九一六)の最初の小説は「吾辈は猫である。名前はまだない」(以下本文の引用は岩波文库版による)とはじまり、末尾の一文は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても际限がないから生涯この教师の家で无名の猫で终るつもりだ」となっている。一度捨てられた后に拾われて、中学校の英语教师の家の饲い猫になったにもかかわらず、「名前はまだつけてくれない」无名性が强调されていることになる。
「吾辈」以外の猫は名前あり
たしかに他の登場猫たちには「名前」がある。冒頭の二文を自己紹介がわりに使用したところ「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ」と「気焔を吹」いたのが「車屋の黒」。「産まれた」ばかりの「玉のような子猫を四疋」「書生」に「裏の池へ」「棄て」られてしまった「軍人の家」の猫は「白君」。そして「代言の主人を持っている」のが「隣りの三毛君」で、「人間が所有権という事を解していないと大に憤慨している」のである。
たしかに名前はついているのだが、「车屋の黒」が「纯粋の黒猫」であり、「太阳は、透明なる光线を彼の皮肤の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の间より眼に见えぬ炎でも燃え出でるように思われた」と描写されているように、要するに猫たちの「名前」は特别な固有名ではなく、その毛の色に过ぎない。
この事実に気づいてみると、「吾辈」に「主人」が「名前」をつけてくれないのは、その毛の色としての「皮肤」の色が原因の一つになっていたのではないかと推察出来る。なぜなら、「吾辈」の「皮肤」の色は「波斯产の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」だったからである。あまりに复雑すぎて猫の「名前」にするのは不可能である。
苦沙弥先生の肌は淡黄色
しかし、より重要なのは、「吾辈」の毛の色が、「主人」の「皮肤」の色と酷似しているという事実だ。「主人」は「胃弱で皮肤の色が淡黄色を帯びて」おり、后に「种え疱疮」に失败したために「颜一面に」「あばた」(九章)があることも明らかにされる(漱石自身の実像と重ねられている设定)。「吾辈」自身の「黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」の「皮肤」と対応していることは明らかだ。饲い猫と主人を対で考えると、「黒」は「车屋」、「白」は「军人」、「叁毛」は「代言」(弁护士)なのだから、いずれも明治维新后「文明开化」「富国强兵」「脱亜入欧」を目指している大日本帝国という国家の中で、新たに生み出された职业であることがわかる。もちろん「吾辈」の「主人」は「中学校」の「英语」の教师なのだから、それも明治以后に成立した职业であることは言うまでもない。
「所有権」を「解していない」「人间」に対して、「我ら猫族」は、「人间と戦ってこれを剿灭せねばならぬ」と猫たちは考えている。『吾辈は猫である』が一回読み切りの予定で俳句雑誌「ホトトギス」に発表されたのが一九〇五年の一月。日露戦争二年目の正月であり、一月一日に旅顺のロシア军が降伏し、その戦胜ニュースに大日本帝国中が沸いているときであった。しかし一九〇四年八月二一日から、乃木希典司令官の下で始められた旅顺攻撃は大きな损害を出していた。十叁万を投入した日本军の死伤者は五万九千人であった。
しかし日清戦争のときは、わずか一日で东洋一と言われていた旅顺要塞を占领したのであった。最初の新闻连载小説『虞美人草』(一九〇七年六月二叁日~一〇月二九日)の、外交官であった父が外国で客死した甲野さんは、日露戦争について「日本と露西亜の戦争じゃない。人种と人种の戦争だよ」と言い切っている。黄色人种同士の戦争であった日清戦争のときは、わずか一日で犠牲者无しで落とすことの出来た旅顺要塞は、黄色人种と白色人种の戦争としての日露戦争では、百叁十日の激戦で莫大な死伤者を出したのである。
人种は皮肤の色で差别化する
「人種と人種」は「皮膚」の色で差別化するのである。漱石夏目金之助がロンドンに留学していたとき、イギリス人の差別的眼差しを内面化している。「ホトトギス」(一九〇一、2 )に載った「倫敦消息」と名付けられた正岡子規宛の私信の中で漱石夏目金之助は、次のように自分の「皮膚」の色に言及していた。
&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;我々黄色人――黄色人とは甘くつけたものだ。全く黄色い。日本に居る时は余り白い方ではないが先づ一通りの人间色といふ色に近いと心得て居たが此国では遂に人-间-を-去-る-叁-舎-色と言はざるをえないと悟った。
日露戦争の開戦の大きな要因の一つが、黄色い肌をした日本人の世界的進出を警戒する「黄禍論」(Yellow Peril)であった。日清戦争の最終段階で、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が、黄色人種の脅威を主張し、日本嫌い(大津事件の記憶)のニコライ二世を焚き付けて「三国干渉」を行ったときの中心が「黄禍論」であったことを忘れてはならない。このとき以来「臥薪嘗胆」を合言葉に、日清戦争で獲得した莫大な戦争賠償金を軍事費に注ぎ込み、大日本帝国は日露戦争開戦へと突き進んでいったのである。人間の「皮膚」の色をめぐる人種的差別と帝国主義的な戦争との連続が猫の毛の色から喚起されて来るのである。
一高と山口进と夏目漱石 ある日のこと。千駄木のとある家の门前には一箱の馒头が置かれていました。「ご自由にどうぞ」と书かれた添え札を见た若き日の山口は、馒头を欲し、まずは挨拶をとその家を访れます。応対したのは、第一高等学校教头?斋藤阿具の血縁者でした。これを机に一高に雇用された山口は、寮务掛として勤めながら様々な絵画?版画作品を残し、一高の校章もデザインしました。馒头が置かれていたその家は、かつて夏目漱石が住み、『吾辈は猫である』を执笔した场でした。 |