画猫の系谱 ー徽宗?春草?栖鳳ー | 広報誌「淡青」37号より
![](/content/100074696.jpg)
画猫の系谱 -徽宗?春草?栖凤-
近代日本画を代表する二人の巨匠、菱田春草と竹内栖凤(せいほう)は、猫を题材にした名作を残しています。东アジア絵画史を研究する板仓先生によると、これらの作品は昔の中国の皇帝が描いた絵が下敷きになっていました。时空を越えてつながる画猫の系谱をたどってみましょう。
猫と美术史学
![]() Masaaki Itakura 教授 |
![](/content/400102077.jpg)
「猫図」北宋?(伝)徽宗 个人蔵
渋谷区立松涛美术馆では「ねこ?猫?ネコ」展(2014年4月5日~5月18日)、「いぬ?犬?イヌ」展(2015年4月7日~5月24日)と立て続けに开催されました。展示作品は近现代の日本のものが中心で、ネコは実用的な侧面ばかりでなく、神秘的で魅惑的、美しく気高く可爱らしい动物として、イヌは主人に忠実な性质から「人间の最良の友」と称され、最も人に亲しまれる动物として造形化されてきた歴史を各々振り返るものでしたが、参観者数を比较するとネコ展の圧胜で终わりました。
皇帝の中でネコ派といえば徽宗(きそう)(1082~1135 在位1100~1125)です。北宋第八代皇帝、徽宗は芸术や奢侈游兴に现を抜かし道教に耽った「浪子(游び人)」、政治に疎く軽佻と评された亡国皇帝のイメージが定着していますが、宋王朝の文治主义のもと、宫廷文化の顶点に立ちながら、文人文化の达成をも引き受け、文化を主导した「风流天子」なのです。徽宗には画猫の伝称作品が复数あり、中でも水戸徳川家伝来の伝徽宗笔「猫図」はその精细な描写において群を抜いています。画面いっぱいに描かれているのは斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い细线による体毛によって覆われ、立体感が表されています。その一方で、体の轮郭は限りなく円形に近く、平面的な指向を见せます。徽宗が目指した装饰性と再现性、时代で言い换えれば唐と宋の「止扬」と见なせる造形指向が认められるのです。
中近世日本では徽宗の画猫を代表とする院体画が重要な「古典」として君临し続けましたが、その意识は写生をより明确に意识した近代においても継承されました。近代日本において东西の巨匠による作品、つまり、菱田春草(1874~1911)の「黒き猫」(1910年 永青文库)と竹内栖凤(1864~1942)の「班猫」(1924年 山种美术馆)がありますが、実は共に徽宗の猫が「古典」として意识されています。
春草最晩年の杰作「黒き猫」に见える写生と装饰の融和も徽宗の猫図からヒントを得たことが出発点です。1901年制作の「白き猫」(春草会)は细密な猫の描写とあっさりと面的に描いた梅树の対比が鲜やかですが、この作品が水戸徳川家旧蔵本を基にしたことは一见して明らかです。春草はその后、几つかの试みを経て「黒き猫」に至りました。又、春草は东京美术学校の嘱託教员となる直前に学校に中国絵画などの模本を教材として纳入しましたが、その中には别の(伝)徽宗「猫図」が含まれます。この「猫図」は徽宗の画风が直接反映しているとは言い难いのですが、江戸时代には有名な徽宗の「猫図」だったはずです。そして、この画こそが栖凤が「班猫」制作において念头に置いたものなのです。彼は沼津で遭遇した八百屋の猫を「徽宗皇帝の猫」と见て、早速譲り受け、京都に连れ帰って日夜眺めては描写に勤しみ、完成させたのが「班猫」という逸话が伝わっています。近年、海の见える杜美术馆所蔵の膨大な栖凤関连写真资料の中からその猫の写真が见出されました。絵画から现実、そして再び絵画へ。絵画と现実の往还、ここに写真が介在した可能性があったわけで、画猫をめぐる课题が近代美术自体のそれに重なってくるのです。
![images](/content/400102078.jpg)
「猫図」菱田春草 东京艺术大学所蔵
![images](/content/400102079.jpg)
「白き猫」菱田春草 飯田市美術博物館所蔵
「班猫」竹内栖鳳 重要文化財 山種美術館所蔵
栖鳳がモデルにした猫 海の見える杜美術館所蔵