知られざる日本史の谜解きに挑む 北海道常吕町で60年以上続く东大考古学教室の発掘调査


北海道北见市常吕町の大岛2遗跡で、擦文时代の竪穴住居跡の発掘実习に参加する学生たち
どんよりと曇り、时折小雨がパラつく不安定な空模様。今年8月、北海道北东部の北见市常吕町で11世纪から12世纪の遗跡の発掘実习に参加した东京大学文学部考古学教室の学部?院生らにとって、すでに前日の雨で泥だらけになっていたその日の现场は、最高の状态とは言えないものでした。
学生たちはそれでも、惯れた様子で车から降り、ゴルフ场脇から草むらを掻き分け林の中を进みます。1辺5メートルほどの四角く掘られた穴のある现场に着くと、全身に蚊よけスプレーをたっぷりと吹き付け、道具を手にし、4つの区画に分かれて黙々と土を掘り始めました。しばらくすると、学生の一人が、指导教员の熊木俊朗教授に向かって突然声を上げました。
「先生、土器が见つかりました!」
黒茶色の地面の中から现れたどんぶり鉢ほどの大きさの土器は、最初はほとんど土と见分けがつきませんでしたが、注意深く泥を払っていくと、次第に、鉢の丸みや高台まできれいに残した全貌を现しました。

取材当日たまたま出土した土器

土器の一部が地面に姿を现したのを确认后、その场所を囲って掘り出しを进める学生たち
今年の実习现场である大岛2遗跡の竪穴住居跡の5号住居(调査自体は2016年に开始)で二つ目の「擦文土器」の出土の瞬间でした。
文学部の附属施设である北海文化研究常吕実习施设では、毎年8月から9月にかけての约1か月间、野外考古学実习が行われます。1957年に常吕で発掘调査を开始してから毎年継続され、これまでに延べ约1000人もの学生や研究者が参加してきました。
戦前から多くの考古学研究が行われ学术的な蓄积がある本州に比べ、特に常吕を含めた道东地域には考古学上解明されていないことが多く残っています。その意味でも、常吕という场所は、东大の考古学研究室のみならず、日本の考古学研究にとっても重要な価値を持つのです。
常吕と东大の関わり
そもそも、なぜ东大が、人口3700人の常吕町に考古学研究の拠点を构えることになったのでしょうか。

大学卒业后、化学メーカーで2年间営业の仕事も経験したこともある文学部の熊木俊朗教授。东京出身だが研究者になってからはずっと常吕に住んでいる
助手时代から20年以上常吕に常驻する熊木先生によると、文学部の考古学は东洋史を基础として始まり、戦前は中国?朝鲜をフィールドとしてきました。戦后まもなく、驹井和爱助教授を中心に考古学専攻が设置され、国内に目を向けた驹井助教授は、北海道网走市に残るオホーツク文化の代表的遗跡であるモヨロ贝塚の调査を始めます。
网走から车で1时间ほどの距离にある常吕との出会いは1955年、アイヌ语の调査をしていた文学部の别の研究者、服部四郎教授(言语学)が、樺太アイヌ语を话す藤山ハルという女性と常吕で遭遇し、闻き取り调査を始めたことがきっかけとなります。そこで会ったのが大西信武という地元の土木関係者でした。
「大西さんは、土木関係の仕事を通じて常吕に遗跡があることをよく知っていました」と熊木先生。「なんとか调査、保护してほしい、と北海道庁などを含めいろいろ掛け合っていたんですが当时は正直相手にしてもらえなかった。そこで东大から研究者が来ているということで乗り込んできたんです。话を闻いた服部先生は大西さんの情热にほだされ、驹井先生に连络。関心を持った驹井先生が常吕の调査を1957年に开始し、それ以来毎年ずっと调査を続けているのです」。
1965年、东大による発掘资料を公开するため、常吕町が开设した「常吕町郷土资料馆」が最初の施设。地元の热意に応える形で、常驻の助手を派遣した1967年から、今日まで拠点を维持してきました。

実习施设を含むサロマ湖沿岸の「ところ遗跡の森」には游歩道が整备され、縄文、続縄文、擦文时代の復元住居を见ることができる
「もう一つの歴史」
日本史の授业では一般的に、採集?狩猟を中心とした縄文文化から、农耕を中心とした弥生文化に日本社会は移行したと学びますが、北海道では农耕が始まるのはずっと后で、独自の文化が展开します。
縄目の文様に代表される縄文土器を特徴とする縄文时代のあと、弥生时代ではなく続縄文时代という时代が始まります。约2400年前から约1400年前までの约千年间にわたって、縄文时代と同様に狩猟?採集を中心とした生活が続けられました。

北海道と日本各地の时代区分
その後、7世紀から13世紀頃まで続くのが擦文時代と呼ばれる時代で、この時代の人々も 、地面に大きな穴を掘って床と壁を造った半地下式の竪穴住居で暮らしていました。
擦文时代は14世纪ごろアイヌ文化期に移行していきますが、一方、北海道のオホーツク海沿岸には5世纪から9世纪にかけ、北方から渡ってきた异文化の人々が、まったく违う文化、オホーツク文化を展开します。彼らは海での狩猟、渔労を行い、クマを崇拝する独特の风习を持っていました。

网走市の北方民族博物馆に展示されているオホーツク文化の土器

(左)先に発掘された大島2遺跡2号住居から出土した擦文土器 。ヘラ状の道具でつけた模様がこの時代の土器の特徴 (右)熊木先生のチームが発掘した擦文時代の木製のフォーク。この時代のフォークが出土することは非常に珍しいという
常吕地域には、旧石器时代から縄文、続縄文、擦文、オホーツク文化にいたるまで、人々が连続して住み続け、多くの遗跡が残された点が、北海道の他の场所にはない特徴だと熊木先生は话します。

出土した炭化木製品。ひしゃくの一部ではないかと考えられている
常吕地域にはくぼみから竪穴だと判明している场所がなんと3000か所以上もあり、歴史のロマンを身近に感じられます。しかし、発掘にかけられる研究费や时间には限りがあるため、ポイントを绞りつつ精度の高い调査を进める必要があります。
熊木先生自身は、擦文文化とオホーツク文化の関係に兴味を持って研究を进めてきました。発掘现场で出会う土器や、屋根や柱などが燃えて黒く炭化した炭化材は、大昔の人々の生活の様子を知る贵重な手がかりです。
「ここには资料がたくさんあって、ロシア?极东も含めて研究材料はたくさんあります。私たちの仕事は、仮説を立て、その仮説を発掘によって検証すること。その仮説が当たれば面白いし、外れたら外れたで面白い。掘るたびに何か発见があって、违っていればその説を修正して、ということの繰り返しですね」。
例えば、擦文文化では、住居を燃やした形跡が多く见つかっています。常吕町の丘陵の上にある大岛遗跡でこれまで掘り起こした5つの穴はすべて焼失住居でした。
「住居に火をつけて燃やすのはなぜか。人が亡くなったときに、アイヌ文化では、家そのものや仮小屋を作ってそれを燃やし、あの世で住むための家を送る「家送り」と呼ばれる仪式があります。擦文もそうなんじゃないか、という仮説があって、発掘によって、家を焼く仪礼があったことが分かりつつあります」。

(左)层の色によって住居跡の时代変迁が分かるため、色も细かく记録する(右)常吕実习施设の夏木大吾助教
熊木先生とタッグを组む夏木大吾助教も、北海道に考古学的な魅力を感じ、研究のフィールドは道内に置き続けたいと语ります。夏木先生は今年6月、常吕から少し西にある、同じくオホーツク海沿岸の远軽町にあるタチカルシュナイ遗跡で、縄文时代草创期の土器の破片を见つけました。
土器は16000年から11500年前のもので、旧石器时代に分类される时代ですが、最近では、北海道にも本州から縄文时代草创期の人たちが移住してきた証拠が少しずつ集まりつつあります。
縄文时代草创期の土器は、爪型文土器という、爪かそれに似た道具で付けた模様が特徴です。过去の発掘で、本州からの移民が十胜地方の帯広市まで来ていることは分かっていましたが、今回の调査でその土器の破片が40点以上见つかり、帯広よりさらに北の、非常に寒くて乾燥していたオホーツク海侧まで来ていたということが分かったのです。
「日本は考古学の研究の层が厚く、蓄积がものすごくあります。本州の中で発掘をしても、新しいことはあまりもう分からない。分かっていることのほうがはるかに多い。そうなると、日本史の中心となるような场所から离れた北海道のほうが、次々と面白いことが分かって、またここの歴史を明らかにすることで日本史全体の理解も変わって来ます。歴史と文化伝统をひっくるめてとても面白い土地だと思っています」。

雨上がりの地面は泥だらけ。现地には蚊も非常に多い
厳しくも充実した実习
常吕での実习は考古学専修の必修科目で、参加学生はプログラム中の1ヶ月间、施设内の学生宿舎で共同生活を送ります。地元の方に作ってもらったおいしいご饭を毎日3食食べ、朝8时半に集合してから夜の8时のミーティング终了まで、院生のティーチング?アシスタントの统括の下、みっちり発掘技术を学びます。
「普段一人暮らしなので、他の同级生と共同生活するのは今回が初めて。7时半に起きて、8时半に集まって、というのも普段大学に行く时と全然违う(笑)。ようやく惯れてきたかなという気がします」と话すのは学部3年生の福永眞也さん。兵库県出身で、大阪や奈良の古坟を通じて考古学に兴味を持ち、将来は研究者になりたいと话します。
「本郷で入门の授业はあったけど、现场に立つのは初めてで、道具の名前とか知らないことばっかりです。自分が掘ったところから炭化材や土器が出て来るというのは、座学だけしていると経験できないこと。学部3年の时期からこういう体験ができるのはとても贵重だと思います」。
同じく3年生の桥本渚さんは、大学院まで进み、博物馆の学芸员になることを目指しています。
「思ったより楽に掘れないんだな、と思いました。もっとサクサク掘って、遗物もゴロゴロ出てくるのかと思ったけど、最初に现地に来たとき、草がボーボーに生えていて、草抜きとか落ち叶拾いから始めないといけなくて」と振り返ります。
「でも楽しいです。炭化材を発见するだけでも、昔の人が住んでいた家から屋根が焼け落ちたものなどだと分かると、昔この土地にいた人间が使っていたんだな、それを自分が今见られるというのは、すごいことだな、と思います」。

大岛遗跡近くの常吕森林公园内100年记念展望台から见渡せる常吕町。オホーツク海に面している
取材?文:小竹朝子