ガザ危机と中东の激动
2023年10月に始まったハマスによるイスラエルへの越境攻撃とイスラエル军によるガザへの侵攻は、世界を揺るがせました。イスラエルとの国交正常化をめぐる近年の中东情势、この纷争がもたらす影响などについて、东京大学先端科学技术研究センター教授の池内恵先生に闻きました。
パレスチナ问题と中东情势
── パレスチナ問題のこれまでの状況について教えてください。
今回の危机の背景を知るためには、まずイスラエルとパレスチナの関係を时系列的に理解する必要があります。19世纪末、ヨーロッパのユダヤ人のあいだで、圣地イェルサレムがあるパレスチナに自分たちの国家を树立することを目指すシオニズム运动が勃兴し、パレスチナへのユダヤ人の入植がはじまりました。しかし、そこはアラブ系住民が住む地であり、両者のあいだで土地や财产をめぐって多くの争いが生じました。第一次世界大戦后にパレスチナの委任统治を始めたイギリスが问题を适切に解决できずにいるうちに、第二次世界大戦中にはナチによる迫害をうけ、さらに多くのユダヤ人がパレスチナに移住しました。
戦后、国连は1947年にパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国家をつくる「パレスチナ分割决议」を採択しましたが、1948年にイスラエルが建国を一方的に宣言すると、それを认めないパレスチナ人と周辺のアラブ诸国がイスラエルに割り当てられた领域に侵攻し、第1次中东戦争(1948~1949年)が勃発しました。この戦争に胜利したイスラエルは、パレスチナ分割决议の提案をはるかに超える土地を领土としました。その结果、多くのパレスチナ人は居住地を追われ、难民となりました。
その后も纷争は繰り返されます。1967年の第3次中东戦争ではヨルダン领のヨルダン川西岸地区とエジプト领のガザ地区がイスラエルに占领され、以降、この両地区に住むパレスチナ人はイスラエルの占领下で暮らすことになりました。1970年代に入ると、両地区へのイスラエルからの入植の动きが强まりました。パレスチナのアラブ人の解放を目指すパレスチナ解放机构(笔尝翱)は武装闘争で対抗してきましたが、1980年代后半には、国际世论にも后押しされ、和平路线へと方针を転换しました。1993年のオスロ合意で、パレスチナ解放机构とイスラエルが和平交渉に合意し、ヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ自治区となりました。これによって二国家共存へ向けての足がかりができたかのように见えましたが、话はそう简単ではありませんでした。
2001年から2006年まで続いたイスラエルのシャロン政権は、両地区からのユダヤ人入植者の部分的退去とイスラエル军の撤退を进める代わりに、テロ対策の名目でヨルダン川西岸地区のアラブ人居住地とのあいだに分离壁を建设し、ガザ地区の周囲にも壁を建设して封锁しました。ガザ地区は「屋根の无い监狱」と呼ばれる特殊な状况に置かれたのです。その中で、笔尝翱主流派のファタハに反対し二国家共存を认めない强硬派のハマスが台头し、选挙を経てガザ地区を実効支配するようになりました。ファタハは、ガザ地区のハマス支配を覆そうと试みますが、逆にハマスの军事力に圧倒され、ガザ地区から追い出されました。ハマスはその后15年以上ガザ地区を実质的に支配して武力闘争を繰り返し、イスラエルと激しく対立してきたのです。
── 2020年以降は、どのような動きがあったのでしょうか?
2020年にアラブ首长国连邦(鲍础贰)とイスラエルが国交を正常化しました。これ以后、湾岸诸国やアラブ诸国の间でイスラエルとの関係を见直し、正常化に向かう动きが进みました。これをユダヤ教、キリスト教、イスラーム教に共通する预言者アブラハムにちなんでアブラハム合意と呼びます。アメリカのバイデン政権は、サウジアラビアとイスラエルの国交正常化に向けた交渉を仲介し、サウジアラビアがイスラエルとの国交を正常化すれば、アメリカはサウジアラビアの安全を保障すると确约していました。
サウジアラビアのサルマーン国王周辺は、1967年の戦争以前の国境での二国家共存によってパレスチナ问题を解决し、アラブ诸国がイスラエルを承认して国交正常化する、という2002年アラブ平和イニシアチブの原则に変わりがないことを一贯して明言しています。しかし、ムハンマド皇太子は异なる考えを持っているのではないかとも言われてきました。イランの胁威が强まる中、アメリカによる安全保障を期待してパレスチナ问题を保留にしたままイスラエルと国交を正常化するのではないかと见られていたのです。実际、皇太子は9月に渡米した际、贵翱齿ニュースに出演し、イスラエルとの国交正常化の交渉が进んでいると明かしています。
湾岸产油国がイスラエルと协议するにあたっては、明确な意思表明をしないという特徴がみて取れます。イスラエル侧は鲍础贰やサウジアラビアに対して、パレスチナ问题の解决を待たずに、まずは国交正常化で関係を强化してから解决策を见つけることが可能だと诉えかけていました。それに対し、鲍础贰やサウジアラビアはイエスと言わない一方で、明确にノーとも言いません。イスラエルにノーと言わずに接近して交渉を続けることにメリットがあると认识し、そのことを戦略的に意思决定していたと考えられます。例えば、イランを胁威とみるサウジアラビアにとっては、イスラエルと同盟関係を结びつつあるという姿势を见せること自体が抑止力になります。しかし、パレスチナ问题に関しては譲歩をすることを避けたいので、明确な意思を示さないのです。
一方で、イスラエルはあと一歩でサウジアラビアとの国交を正常化できると考えていました。また、サウジアラビアとの合意が成立すれば、サウジアラビアや鲍础贰に経済的に大きく依存するイスラーム诸国やアラブ诸国の多くはイスラエルに対して友好的な姿势に転じ、イスラエルとアラブ诸国间の纷争やそれによって引き起こされうるオイルショックを回避できると目论んでいました。これが、ハマスがイスラエルに対し越境攻撃を行った10月7日の直前における状况でした。
高まる民族意识
── ハマスの越境攻撃で何が変わったのでしょうか?
ハマスがなぜ10月7日に大规模な攻撃を仕掛けたのか、直接的な原因や目的は明らかではありません。しかし、イスラエルとサウジアラビアの国交正常化が実现すれば、パレスチナ问题は置き去りにされ、ハマスの将来がなくなることは确かでした。状况から言えば、今回の攻撃は、起死回生策なのではないかとも见られます。あるいは単纯に闭ざされたストレスから暴発した动きなのかもしれませんが、结果としては、今回の攻撃によって、パレスチナ问题を置き去りにした公式な国交正常化の実现はかなり长期间の先延ばしになりました。
事件当日トルコに滞在していた私は、8日にイスラエルに戻り、その直后に国际会议を开く予定でした。そこでは、アブラハム合意がどれだけ进んでいるのか、湾岸产油国とイスラエルの関係强化を中心にした地域の新たな多国间関係の形成に日本がどれだけ関与できるのか、などのテーマについて话し合うことにしていました。事前に湾岸产油国の人たちと交渉する中で感じたのは、昨年末に成立したイスラエルの第6次ネタニヤフ政権に対する反発です。东エルサレムの旧市街にあるハラム?シャリーフはイスラーム教徒の重要な礼拝の场ですが、そこでのユダヤ教徒の礼拝を可能にしようとするような宗教シオニズムの动きに、アラブ侧は强く反対していました。湾岸诸国、例えば鲍础贰は、これまで国交正常化の交渉を进めてきた前政権のベネット元首相やラピド元首相?外相とのコミュニケーションをとるなど、イスラエルとの関係を壊さないようにする一方で、现政権との関係は强化したくないという姿势を露骨に示していました。
10月7日に大规模な越境攻撃が行われたと伝わった瞬间に、湾岸产油国を含むアラブ诸国の侧には、これがイスラエルに対する攻撃であるだけでなく、パレスチナ问题を放置してイスラエルとの国交正常化交渉を进めていたアラブ诸国に対する反発の喷出でもあるという认识があり、一部にはある种の罪の意识も芽生えたようです。长期の封锁下においてもなおハマスがこのような大きな事件を起こす力を保持していたと夸示したことで、パレスチナを置き去りにしたイスラエルとの国交正常化は不可能であるという认识がまたたく间に共有されました。
── イスラエル?ガザ紛争に対し、アラブ諸国はどのように反応したのでしょうか?
10月7日という攻撃のタイミングは、宗教休日で公共机関も含めて社会活动が止まり、守备が手薄になっていたところを狙われた1973年の第4次中东戦争の记忆を苏らせます。エジプト军による奇袭攻撃からはじまった第4次中东戦争を、エジプトでは「10月6日戦争」、あるいはスエズ运河を渡って占领されていたシナイ半岛を取り戻す「渡河」とも呼びます。一方イスラエルでは、开戦日の10月6日がユダヤ教の祝祭日ヨム?キプール(赎罪の日)だったことから「ヨム?キプール戦争」と呼んでいます。断食し神の赎罪を乞うことに集中するための重要な祝日に攻撃を受けた记忆が共有され、受け継がれてきました。今回のハマスによる攻撃は、ヨム?キプールに続いて行われる一週间にわたるスコット(仮庵祭)の最终日であり、一年で最大の祝休日シーズンの缔めくくりの日に起こりました。攻撃する侧からはイスラエルで最も警戒が缓んだ日に见えたのでしょう。イスラエル侧にとっては、宗教的な共同体意识への攻撃として、危机意识や被害者意识は最高潮に达したでしょう。
ハマスによる越境攻撃とそれに続くイスラエルによるガザ地区への侵攻は、広くアラブ诸国の人々に、自分たちが何者であるのか、というアイデンティティの问题を突きつけました。これまでイスラエルに融和的な政策をとってきた、ハマスに亲和的ではない国の人々もまた、イスラエルのガザへの报復攻撃を目撃して、自分たちはイスラエル侧に立つ者ではなく、どちらかといえば明らかにガザに封じ込められたパレスチナ人たちの侧にあるのだと感じさせられたのです。イスラエルはハマスによる越境攻撃をテロと呼び、アメリカおよびヨーロッパ诸国の容认を得て、全面的な报復に乗り出しました。しかし、アメリカ、ヨーロッパの「お墨付き」は、逆に、アラブ诸国、広くはイスラーム诸国の人々に、自分たちがテロリストの侧に位置づけられ、ひとまとめに攻撃される対象であるという认识を持たせることになりました。パレスチナ人に対する攻撃は自分たちにも向けられたものである、という屈辱感や被害者意识が共有されるようになったのです。パレスチナ问题にあまり関心がないと思われていた富裕な湾岸诸国でさえも、外交や军事的な地位の高まりにともない、近年に民族意识や大国?有力国としての夸りを高めていることも、ガザ问题をめぐる屈辱感や愤りの背景にあるでしょう。
アラブ诸国では、10月7日を机に、パレスチナ问题の解决なしに地域の平和と安定は望めないと人々が认识を切り替えています。一方でイスラエルは、ハマスが存在している限り平和と安定はないという考えに基づき、ガザ地区に対する攻撃を続けています。イスラエルが一方的にパレスチナ人を駆逐する事态はアラブ诸国にとって容认できるものではありません。
未だ终着点は见えませんが、パレスチナ问题を解决させるのであれば、なんらかのパレスチナ国家の树立を含む二国家解决を到达点とする新たな合意を、イスラエルとパレスチナのそれぞれの政権?指导部が受け入れなければならないでしょう。そのためには、米国や英国、あるいは西欧や骋7诸国が主导して、サウジアラビアや鲍础贰、カタールやトルコなど中东地域の大国?有力国を巻き込み、エジプトやヨルダンなど隣接した国々の関与と协力を得て、それら全体に国连などがお墨付きを与える包括的な枠组みの合意が必要です。そのような解决を受け入れることは、イスラエルとパレスチナそれぞれの现政権が、内政上の抵抗により难しいため、双方の政権の入れ替えまでもが议题に上るでしょう。破壊されたガザを再建するには多大な国际関与が必要であり、ハマスなきガザの统治には一时的な国际管理も念头に置かれるでしょう。このような新たな包括的な合意が成立するかは、再选の选挙を迎えた米バイデン政権の政策判断と、中东地域の大国?有力国の意向に左右されるものであり、2024年を通じて「ガザ危机后」の外交が繰り広げられていくことになります。
池内恵
先端科学技术研究センター教授
日本贸易振兴会アジア経済研究所研究员、国际日本文化研究センター准教授?総合研究大学院大学准教授、アレクサンドリア大学(エジプト)客员教授、东京大学先端科学技术研究センター准教授などを経て2018年より现职。着书に(2002年、讲谈社)、『イスラーム国の衝撃』(2015年、文艺春秋社)、(2016年、中央公论新社)、(2016年、新潮社)、(2018年、新潮社)などがある。
取材日:2023年11月15日、2024年2月8日
取材:寺田悠纪、ハナ?ダールバーグ=ドッド