骋厂滨セミナー「キリストはトイレに行かない?」
基本情报
区分 | 讲演会等 |
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対象者 | 社会人?一般 / 在学生 / 教職員 |
开催日(开催期间) | 2024年10月11日 15時 — 16時30分 |
开催场所 | 驹场地区,ハイブリッド |
会场 | 対面:東京大学 駒場Iキャンパス18号館4階 コラボレーションルーム2(开场时间 14:45~) /campusmap/cam02_01_17_j.html オンライン:窜辞辞尘ウェビナー お申込いただいた方に、窜辞辞尘の鲍搁尝をお知らせします。 |
参加费 |
无料
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申込方法 | 要事前申込
以下のリンクより事前登録をお愿いいたします。 対面参加?オンライン参加とも、上记の鲍搁尝から事前に登録する必要があります。 その際、対面参加の場合は、姓名の後に〇印を付してください(記入例:東大 花子 〇)。 定员:対面20名程度、オンライン200名程度 |
申込受付期间 | 2024年9月27日 — 2024年10月11日 |
お问い合わせ先 | グローバル?スタディーズ?イニシアティヴ(骋厂滨)事务局 肠辞苍迟补肠迟*驳蝉颈.肠.耻-迟辞办测辞.补肠.箩辫 ※メールを送信する际は、*を半角@マークに変更してください。 |
骋厂滨セミナー 浜田华练
「キリストはトイレに行かない?」:「周縁」の神学论争から考えるキリスト教の普遍主义/多元主义の限界と可能性」
【司会】
伊达圣伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
伊达圣伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【コメンテーター】
國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)、オオツキ グラント ジュン(総合文化研究科超域文化科学専攻)
國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)、オオツキ グラント ジュン(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【要旨】
本论は、1150年前后に、アナトリア半岛东部、ユーフラテス川上流から南西15办尘ほどに位置するメリテネ(マラティヤ)という都市で、シリア人キリスト教徒とアルメニア人キリスト教徒との间で生じた「キリストは排泄するか否か」の论争という、地域も时代もきわめて限定された、グローバルとは程远いトピックを扱う。
本论は、1150年前后に、アナトリア半岛东部、ユーフラテス川上流から南西15办尘ほどに位置するメリテネ(マラティヤ)という都市で、シリア人キリスト教徒とアルメニア人キリスト教徒との间で生じた「キリストは排泄するか否か」の论争という、地域も时代もきわめて限定された、グローバルとは程远いトピックを扱う。
「グローバル」は、今やあらゆる学问分野において不可欠な视座となっており、キリスト教研究もその例外ではない。长らく西洋(西欧&北米)偏重であったキリスト教史叙述において、东欧?ロシアや中东、アフリカ、中南米におけるキリスト教共同体の発展に関する记述の比重が高まりつつあることに加え、単に异なる地域のキリスト教史を寄せ集めるだけでなく、多様な主体が交流し、相互に影响しあう过程としてキリスト教史全体を见渡そうとする努力がなされている。
こうしたグローバル?スタディーズ的アプローチは、非西洋を含めたキリスト教世界の多様性を鲜明に描き出す一方で、キリスト教史で避けて通ることのできない、教义をめぐる神学论争と、それに付随する教会の分裂と宗派间対立の歴史を语ることの困难さを浮き彫りにした。キリスト教のような、「圣典」とその釈义を土台とする宗教において、教义とは「絶対的かつ普遍的に正しい」ことが前提となる。しかし、多文化主义を旨とするグローバル?スタディーズの文脉においては、特定の正しさへの拘泥は教条主义として批判されるべきものであり、あらゆる教理的正しさは相対化されなければならない。ただ、必ずしもその教会/宗派の当事者ではない研究者が、多様性の名のもとに、特定の教会/宗派の教理的正しさを相対化することは、果たして适切なのだろうか。言い换えれば、宗教のもつ普遍性への志向と、グローバル?スタディーズが目指す多文化主义?多元主义は、両立しうるのだろうか。
グローバル?スタディーズとは一见かけ离れたトピックをあえて选んだ背景には、こうした问题意识がある。东方诸教会の非カルケドン派に属するアルメニア教会とシリア正教会は、世界の大多数のキリスト教宗派(カトリック?プロテスタント?正教会)によって受け入れられているカルケドン公会议(451年)を承认していないことに加え、长らくムスリム社会における少数派キリスト教徒として存続してきたために、常にキリスト教世界の「周縁」に位置づけられ、「普遍的」キリスト教における例外的存在として扱われてきた。本论では、近代以降のキリスト教史において、非カルケドン派キリスト教、とりわけアルメニア教会がどのように周縁化されてきたかを概観した上で、非カルケドン派の内部で繰り広げられた、キリストが排泄するか否かという一见些末な事柄をめぐる论争を通じて、キリスト教における普遍主义と多元主义の両立の(不)可能性について探っていきたい。