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构内図と分布図でたどる东大キャンパスの変迁|広报誌「淡青」36号より

掲载日:2018年4月10日

実施日:2018年3月9日

创设时には神田锦町(法?理?文)と神田和泉町(医)にあった东大のキャンパスですが、现在は本郷、驹场、柏、小石川、中野、白金台、田无、叁鹰&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;と様々な场所で研究?教育活动が行われています。ここでは、叁大キャンパスの构内図などを见ながら140年にわたる校地の変迁を概観しましょう。

本郷

1886(明治19)年

帝国大学となり法?医?工?文?理の5分科大学体制に。赤门近くの椿山は以前の「富士山」。东端付近にはベルツも居住した教师馆が。

1897(明治30)年

东京帝国大学になった年。仮正门から伸びるメインストリートが见えますが银杏の植树はまだ先。1892年竣工の旧図书馆が健在です。

1923(大正12)年

関东大震灾の年。図书馆、法科大学八角讲堂、理学部本馆など多くの建物が焼失しました(黒色は被害を受けた建物)。1921年起工の安田讲堂は建设の最中です。

1936(昭和11)年

前田侯爵家との土地交换(1926年)で南西部が広がり、一高との土地交换(1935年)で弥生地区が加わりました。七徳堂诞生はまだ先。

1987(昭和62)年

浅野地区が加わり(1941年)、弥生地区も拡充。工学部3号馆、経済学部栋、本部栋などが建ち、校地の隙间はほぼ见えない状态に。

2017(平成29)年

赤门の并びに伊藤谢恩ホールや情报学环?福武ホール、懐徳馆东に产学连携施设などが出现。构内整备が今日もどこかで进んでいます。

驹场

1884(明治17)年

驹场農学校は1890年に帝国大学農科大学に。農科大学から改称した農学部は1935年に本郷へ移り、かわりに驹场に来た一高は1949年に教養学部に移行。1926年、現在の驹场公園エリアが前田家の所有となり、驹场地区はIとII、2つのキャンパスに大別されました。

2017(平成29)年

2000年(平成12)年

米军通信所跡地で始动した柏地区。当初は物性研究所と宇宙线研究所だけでしたが、その后、新领域创成科学研究科、カブリ数物连携宇宙研究机构、大気海洋研究所、生产技术研究所附属千叶実験所も仲间に。今は柏滨滨、柏の叶駅前と合わせた体制となっています。

2017年(平成29)年

东京大学施设分布図

図版:過去および現在の国内施設分布

现在施设があるのは53ヶ所(20都道県)。东京开成学校があった神田锦町、东京天文台があった狸穴町、物性研と生研があった六本木、果树园があった二宫町、谷川寮があったみなかみ町、第二工学部があった西千叶など、过去に大変お世话になった场所も数多あります。


※本记事は広报誌「淡青」36号の记事から抜粋して掲载しています。笔顿贵版は淡青ページをご覧ください。

写真:1911(明治44)年頃の東京大学正門

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