キャンパス散歩/移転の歴史の记忆が重畳する驹场リサーチキャンパス|広报誌「淡青」35号より
実施日: 2017年09月08日
キャンパス散歩
移転が繰り返された歴史の记忆が重畳する驹场リサーチキャンパス
生产技术研究所教授
驹场リサーチキャンパス(驹场滨滨キャンパス)は、井の头线驹场东大前駅と池の上駅、小田急线东北沢駅と代々木上原駅とを结んだ四角形のなかに位置し、敷地の南端は井の头线に接しています。この地には、かつては驹场农学校にはじまる东京帝国大学农学部の农场がありました。関东大震灾后に合意された农学部と第一高等学校との敷地交换による移転と并行して、本郷にあった前田侯爵家との敷地交换や、越中岛にあって被灾した东京帝国大学航空研究所の移転も进められました。结果として、驹场の农学部の旧敷地には、东から、第一高等学校、前田侯爵家、航空研究所が配置されることになりました。驹场リサーチキャンパスは、1930年に移転を完了した航空研究所のキャンパスを継承しています。
このキャンパスの北侧に设けられた正门付近には、航空研究所移転当时の雰囲気が残っています。正门から见てまず目に飞び込んでくるのは、大きなヒマラヤ杉とその背后にある时计塔をもった建物です。これは航空研究所旧本馆(现13号馆)で、国の登録有形文化财に指定されています(写真1)。13号馆の両隣には风洞実験栋(现1号馆、写真2)、実験栋(现17号馆、写真3)があります。
1920年代、东京帝国大学のキャンパス全体の设计を主导していたのは、営缮课长を兼务していた内田祥叁教授でした。ただ、航空研究所のキャンパスについては、安田讲堂を共同设计していた岸田日出刀(后に本学教授)に任せていたといわれています。その结果、13号馆、1号馆、17号馆は、安田讲堂以上に岸田色の浓い、ドイツ表现派の影响を受けた建筑となっています(岸田は1925年に1年间渡欧)。例えば、13号馆の时计塔は上すぼまりで左右対称ではありません(写真4)。また、17号馆北东の角の横一面のガラス窓も近代建筑的で内田ゴシックには见られない特徴です。
1号館の前には、飛翔とスピードを体現したような独特の造型の銅像があります(写真5)。これは、航空研究所の駒場移転に尽力した、斯波忠三郎航空研究所所長の事績を顕彰し1935年に建立されたものです。「淡青」第六号(2002 Vol.6)の藤森照信教授の記事によれば、斯波所長は加賀藩家老家のご出身とのこと、前田公爵邸(現?区立駒場公園)とこのキャンパスが隣接しているのは偶然ではないのかもしれません。
驹场リサーチキャンパスは移転と縁が切れないようです。航空研究所の后継组织である宇宙航空研究所は、文部省の直辖研究所である国立大学共同利用机関宇宙科学研究所となり、1981年に渊野辺(神奈川県)へ移転していきます。その后、この地には1987年に先端科学技术研究センターが设立されるとともに、1999年から2001年にかけて六本木にあった生产技术研究所が移転してきました。
これらの移転に伴って、キャンパスの南侧の大半の建物は、原広司教授のマスタープランに基づいて新筑建物群で构成されることになりました。そのマスタープランでは、13号馆をキーストンに见立て、生产技术研究所と先端科学技术研究センターの新筑建物群が、长方形のユニバーシティ広场を取り囲む构成をとっています(写真6)。
これらの建物群は広场周縁が连続するように计画されたピロティでほぼ繋がっており(写真7)、北东端から反时计回りに回游すると、3号馆、3号馆南栋、4号馆、総合研究実験栋(础苍栋)、生产技术研究所叠~贵栋を巡ることができます。この长方形の回游路の南侧の一辺に位置する础苍栋には、レストランが入居し、昼食时や、キャンパス内での催しのあとの恳亲会などで賑わっています(写真8)。ユニバーシティ広场(写真9)で昼休みにはミニサッカーをする姿がみられるなど、広场とその周辺の树木群は、日々?季节の移ろいのなかで様々な表情を见せ、心をなごませてくれます。
特に、春の桜が咲き夸る时期(写真10)や、秋の银杏の叶で彩られる顷(写真11)は圧巻です。また、日没薄暮の瞬间に、思いもよらぬ色调の空を背景に、キャンパス全体が不思议な表情を见せることもあります(写真12)。
こうした大きな空间の骨格のなかで、特徴ある场所も息づいています。キャンパス西侧に位置する东大驹场むくのき保育园は、ムクノキの巨木を取り囲んで计画された事业所内保育所です(写真13)。旧风洞施设を改筑した厂栋(今井公太郎教授设计)は、キャンパス南端に位置し、デザイナーとエンジニアが协働する国际センターとして活用されています(写真14)。また、キャンパス东南端を占めるインターナショナルロッジ?驹场ロッジ别馆は、海外から来访する学生?研究者の贵重な宿泊施设としてほぼ満室状态で利用されています(写真15)。
※本记事は広报誌「淡青」35号の记事から抜粋して掲载しています。笔顿贵版はをご覧ください。