紧张と歓喜の擦文遗跡発掘/熊木俊朗の北东アジア考古学蔼北海道 | 広报誌「淡青」35号より
実施日: 2017年09月08日
北東アジア考古学 @ 北海道
900年前に焼けた家といま向き合う
紧张と歓喜の擦文遗跡発掘
飞鸟~鎌仓时代にかけて北海道で栄えた擦文(さつもん)文化の名は、ヘラで擦って刷毛目をつけた擦文土器に由来します。この时代の遗跡の宝库である北见市に移り住み、20年にわたって発掘调査を続けてきたのが熊木先生。大昔の遗物といま向き合う考古学の醍醐味を语ります。
熊木俊朗/东京出身
Toshiaki Kumaki
准教授
北见市大岛2遗跡で行われた、擦文文化の竪穴住居跡の発掘调査。野外考古学の実习として、文学部?人文社会系研究科考古学研究室の学生?院生?教员が参加して行われる。 |
擦文文化の竪穴住居跡から出土した炭化材。放射状に拡がる丸材は屋根の垂木とみられる。 |
自宅の近所で拾ったものが、何千年も前に使われていた遗物だった、という経験はありますか?
东京でインドア派の少年时代を过ごした私にとって、それは自分とは无縁の、非现実的な妄想のような话でした。しかし20代の半ばになって考古学の世界に足を踏み入れてからというもの、日本の北辺で遗跡や遗物に囲まれる日々をもう20年も続けています。まさかこのようなことになるとは、10代の顷には全く想像もしていませんでした。
私が研究の拠点としている人文社会系研究科附属北海文化研究常吕実习施设は、北海道の東部、北見市常呂町に設置されています。施設が位置する常呂川の河口地帯は遺跡の宝庫であり、この一帯には今から900年前、もしくはさらに古い時代の竪穴住居の跡が3000基も埋まりきらずに凹みで残っています。毎年、夏の一ヶ月間にわたって考古学専修の学生?大学院生とともにこれらの遺跡の発掘に挑む、というのが私の年間の研究計画において最大のイベントになります。
现在は、北见市大岛2遗跡で擦文文化(纪元12世纪顷)の竪穴住居跡の発掘调査を続けています。この遗跡の竪穴住居では、家を引き払う际に意図的に火を放つという行為が行われており、住居の上屋などの木材が炭化した状态で大量に検出されるとともに、家を焼く际に行われた仪礼の痕跡が発见されています。このような资料が出土した场合、発掘现场では、大量の炭化材をどのように记録して回収するか、何を仪礼の痕跡とみなして详细に记録するか等々、限られた时间と予算の中で次々と判断を迫られます。擦文文化の住居构造や仪礼に関する研究成果を熟知した上でその検証を意识すれば、调査の工程は自ら决まってくるのですが、予见できないものが土の中から现れて惊き迷うこともしばしばです。このような、予测と検証を繰り返す紧张感と临场感、新発见の喜びこそが発掘调査の面白さであり、それを毎年自ら企画して実行できるという考古学者にとっては得难い环境が、常吕実习施设には整备されているのです。
私个人の意识では、最近は地域の住民、すなわち「常吕の人间」であることを强く自覚するようになりました。それは、大学と地域の连携を推进する东大教员としての责任に由来する部分も当然あるのでしょうが、もっと様々なもの、例えば、目の前に手付かずで拡がる遗跡の风景、初夏の爽やかさや厳冬期の冻える寒さ、牡蠣やホタテなどの食の豊かさ、情报?流通?医疗などの不便さ、异郷と故郷の狭间でかられる郷愁、施设を支えてくださる地域の方々の想い、それらがない交ぜとなった感情なのだと思います。地域を取り巻く环境は今后益々厳しくなると予想されますが、地域住民としての自覚を抱きつつ、この地で研究を継続していきたいと考えています。
东京でインドア派の少年时代を过ごした私にとって、それは自分とは无縁の、非现実的な妄想のような话でした。しかし20代の半ばになって考古学の世界に足を踏み入れてからというもの、日本の北辺で遗跡や遗物に囲まれる日々をもう20年も続けています。まさかこのようなことになるとは、10代の顷には全く想像もしていませんでした。
私が研究の拠点としている人文社会系研究科附属北海文化研究常吕実习施设は、北海道の東部、北見市常呂町に設置されています。施設が位置する常呂川の河口地帯は遺跡の宝庫であり、この一帯には今から900年前、もしくはさらに古い時代の竪穴住居の跡が3000基も埋まりきらずに凹みで残っています。毎年、夏の一ヶ月間にわたって考古学専修の学生?大学院生とともにこれらの遺跡の発掘に挑む、というのが私の年間の研究計画において最大のイベントになります。
现在は、北见市大岛2遗跡で擦文文化(纪元12世纪顷)の竪穴住居跡の発掘调査を続けています。この遗跡の竪穴住居では、家を引き払う际に意図的に火を放つという行為が行われており、住居の上屋などの木材が炭化した状态で大量に検出されるとともに、家を焼く际に行われた仪礼の痕跡が発见されています。このような资料が出土した场合、発掘现场では、大量の炭化材をどのように记録して回収するか、何を仪礼の痕跡とみなして详细に记録するか等々、限られた时间と予算の中で次々と判断を迫られます。擦文文化の住居构造や仪礼に関する研究成果を熟知した上でその検証を意识すれば、调査の工程は自ら决まってくるのですが、予见できないものが土の中から现れて惊き迷うこともしばしばです。このような、予测と検証を繰り返す紧张感と临场感、新発见の喜びこそが発掘调査の面白さであり、それを毎年自ら企画して実行できるという考古学者にとっては得难い环境が、常吕実习施设には整备されているのです。
竪穴住居跡に付设されたカマドの脇で検出された仪礼の痕跡。住居の廃絶时にカマドを破壊し、小型の瓮と黒曜石を意図的に配置したもの。 |
常吕実习施设を拠点として、文学部は半世纪以上にわたってこの地で発掘调査を継続してきました。地域からの支援は设立当初から続いており、现在、施设は隣接する北见市の史跡公园「ところ遗跡の森」と一体となって活动しながら、地域の埋蔵文化财の保护と活用にも积极的に関わっています。
私个人の意识では、最近は地域の住民、すなわち「常吕の人间」であることを强く自覚するようになりました。それは、大学と地域の连携を推进する东大教员としての责任に由来する部分も当然あるのでしょうが、もっと様々なもの、例えば、目の前に手付かずで拡がる遗跡の风景、初夏の爽やかさや厳冬期の冻える寒さ、牡蠣やホタテなどの食の豊かさ、情报?流通?医疗などの不便さ、异郷と故郷の狭间でかられる郷愁、施设を支えてくださる地域の方々の想い、それらがない交ぜとなった感情なのだと思います。地域を取り巻く环境は今后益々厳しくなると予想されますが、地域住民としての自覚を抱きつつ、この地で研究を継続していきたいと考えています。
※本记事は広报誌「淡青」35号の记事から抜粋して掲载しています。笔顿贵版はをご覧ください。
常吕実习施设のロゴに採用されたオホーツク文化(1100年前)の偶像。ヒグマです。