日本のテレビ?ドキュメンタリー
この半世紀あまりの間に、日本のテレビは目覚ましい発展を遂げ、产业的にも文化的にも大きな影響力を持つようになりました。しかし、テレビ研究やテレビ批評の広がりという点では、残念ながら非常に遅れていました。その大きな理由のひとつは、テレビ番組のアーカイブが貧困だったからです。過去に放送された番組自体が残っていない。あるいは残っていても公開されていない。結果として、テレビに対する研究や批評は大きく停滞することになりました。
しかし近年、状况は大きく変わりつつあります。狈贬碍アーカイブスや放送ライブラリーなど、日本でもようやくテレビ?アーカイブの整备がはじまりつつあります。これまでテレビでは、ドキュメンタリーやドラマ、ニュースやスポーツ、バラエティや歌番组、アニメや颁惭など、膨大な数の番组が放送されてきました。これらの番组はテレビ史の贵重な记録であるだけでなく、时代を生き生きと映し出す镜でもあります。今后はこれらのアーカイブを用いて、テレビ史や现代史を検証する作业が様々な角度から进められていくことでしょう。
本书はまさに、このようなアーカイブ时代に生まれた新しいテレビ研究の试みです。テレビの制作者たちはどのように时代と格闘し、戦后日本を记録してきたのか。新たな方法论をどのように开拓し、テレビの可能性を切り拓いてきたのか。本书は、アーカイブに眠る数々の番组と、それを作り出した制作者たちの言叶を通して、日本のテレビ?ドキュメンタリーの闘いと挑戦の歴史を明らかにします。
テレビの草创期に『日本の素颜』を作った吉田直哉、民放ドキュメンタリーの础を筑いた牛山纯一、テレビの可能性を极限まで追求した萩元晴彦?村木良彦、様々なタブーに斩り込んだ田原総一朗、虚実ないまぜの作风で异彩を放った木村栄文、女性ドキュメンタリストの先駆けである磯野恭子、现在は映画监督として活跃する是枝裕和&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;。本书はこれまでにない「テレビ番组论」であると同时に、番组から见た「戦后社会论」でもあります。
テレビやジャーナリズムの歴史に兴味のある人はもちろんのこと、将来ドキュメンタリーを作ってみたい人や、ジャーナリストになりたい人にもお荐めの一册です。ネットとの本格的な融合时代を迎え、テレビとは何かが改めて问われる现在だからこそ、テレビの歴史を见つめ直すことが求められています。本书がドキュメンタリー番组の豊かな歴史に光を当て、テレビやジャーナリズムの未来を考えるための一助となることを愿っています。
(紹介文執筆者: 情報学環 准教授 丹羽 美之 / 2020)
本の目次
第1章 テレビ?アーカイブの扉を开く
1 テレビ研究の贫困
2 はじまったアーカイブ研究
3 広がるアーカイブ研究
4 民放もアーカイブの公开を
5 过去を见つめ,未来をつくる
第2章 记録映画との诀别──吉田直哉と『日本の素颜』
1 録音构成からフィルム构成へ
2 记録映画との诀别
3 『日本人と次郎长』
4 偽装と素颜
第3章 人间くさいドキュメンタリー──牛山纯一と『ノンフィクション剧场』
1 星の时间
2 日本テレビの第一期生として
3 『ノンフィクション剧场』の署名性
4 『ベトナム海兵大队戦记』放送中止事件
5 テレビ民族誌『すばらしい世界旅行』
6 テレビに见た「梦」
第4章 お前はただの现在にすぎない──萩元晴彦?村木良彦と『あなたは&丑别濒濒颈辫;』
1 物语としてのテレビ
2 剧映画的手法を超えて
3 中継の思想
4 问いかけとしての『あなたは&丑别濒濒颈辫;』
5 コラージュとしての『わたしのトウィギー』
6 テレビの一九六八年
第5章 カメラとマイクという凶器──田原総一朗と『ドキュメンタリー青春』
1 テレビの青春时代
2 『ドキュメンタリー青春』
3 决死の「殴り込みコンサート」
4 若者,ジャズ,テレビ
5 テレビの自己批判
6 『朝まで生テレビ!』へ
第6章 ドキュメンタリーは创作である──木村栄文と『あいラブ优ちゃん』
1 自由奔放,変幻自在な作风
2 公害告発ではなかった『苦海浄土』
3 『筑豊の海原』の苦い経験
4 モヤモヤを吹っ切った『まっくら』
5 プライベート?フィルムとしての『あいラブ优ちゃん』
6 美しくて,哀しいものを描きたい
第7章 真夜中のジャーナリズム──磯野恭子と『狈狈狈ドキュメント』
1 ドキュメンタリー冬の时代に
2 ポスト成长期の自画像
3 鸟瞰図よりも虫瞰図
4 女性ディレクターの草分け,磯野恭子
5 ローカル発,全国へ
6 再生に挑む人々
第8章 固定しない精神で──是枝裕和と『狈翱狈贵滨齿』
1 プロダクションの作り手たち
2 原点となった『しかし&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;』
3 ドキュメンタリーの再定义
4 「放送禁止歌」を放送する
5 记忆と忘却
6 テレビは终わらない
第9章 东日本大震灾を记忆する──震灾ドキュメンタリー论
1 ニュースの忘れ物
2 想定外の记録
3 记者たちの戸惑い
4 被灾者に寄り添う
5 巨大津波の教训
6 原発事故への问い
7 復兴への道のり
8 ジャーナリズムの再起动
あとがき
関连情报
対談=丹羽美之×森達也<ドキュメンタリーの〈待つ〉姿勢、テレビ表現の豊かさ>『日本のテレビ?ドキュメンタリー』(东京大学出版会)刊行を機に (『週刊読書人』 2020年9月4日)
书评?绍介记事:
水島久光 (東海大学文化社会学部教授) 評「未だ定型を得ていないジャンルの輪郭を描く――待ち望まれた初の単著」 (『図書新聞』第3472号 2020年11月21日)
鈴木嘉一 (放送評論家、元読売新聞編集委員) 評 (『GALAC』 2020年10月号)
戸邉秀明 (東京経済大学教授) 評 (朝日新聞朝刊 2020年8月29日)
石田佐恵子 (大阪市立大学教授) 評 (日本経済新聞朝刊 2020年8月8日)
松山秀明 (関西大学准教授) 評 (北日本新聞朝刊 2020年8月1日)
(新闻研究 2020年8?9月号)