心という难问 空间?身体?意味
私たちは、知覚や感覚といった、いま自分が経験していることに対して、そしてまた私と同様にさまざまなことを経験しているはずの他者に対して、いくつもの捉え方を ― あるものは自覚的に、あるものは無自覚の内に ― している。だが、私たちが哲学的な反省以前に抱いているそれらの捉え方は実は整合していない。そこには矛盾が含まれており、その軋みが哲学問題を発生させる。私たちはもう一度、経験のあり方と他者の存在を巡る自分の直感を見なおしていかなければならない。
そのために、私は私が「眺望论」と「相貌论」と呼ぶ议论を展开する。眺望论は、知覚し感覚する経験を空间と身体という観点から捉え、経験の公共性を明らかにする。相貌论は、経験を意味という観点から捉え、それをさらに「物语」ということによって论じ、そこに他者性の核心をあぶりだす。そして眺望论と相貌论によって経験を捉えなおし、私たちが実物そのものを知覚しているという実感と、他人も私と同様に経験しているのだという実感を、理论的に掬いとろうとする。
それと同時に、私は私たちが理論以前にもっていた考えのいくつかを否定することになる。「錯覚や幻覚は誤った知覚イメージである」という考えは否定され、「経験は脳が作り出したものだ」という考え (私はそれを「脳神話」と呼ぶ) も否定される。正しい知覚はもちろん、錯覚や幻覚でさえ「知覚イメージ」ではない。「知覚イメージ」なるものは私たちの誤った直感と誤った哲学的議論によって生み出された捏造物にすぎない。また、経験のあり方にとって脳が重要な役割を果たすことは否定しないが、知覚経験はけっして脳の産物ではない。
そうして私は、私たちが実在する世界そのものを知覚しているのだとする素朴実在論に、哲学的議論を経て、到達する。さらに世界は、どのような意味のもとに知覚されているかという、私が「相貌」と呼ぶ側面をもっている。相貌には公共的 (間主観的) に共有される相貌と個人的な相貌があり、両者の間には連続的な推移がある。個人的な相貌こそ、「心」と呼びうるものであるとすれば、ここに、「心」を個人の内面に閉ざされたものとするのではなく、公共的な世界と連続的に接続しつつ、個人のもとにあり、かつ公共的な世界へと開かれうるものとしての「心」のあり方が示されることになる。
心を内面的なものとし世界をその心の外にあるとする「内と外」の捉え方を清算して、心と世界を新しい捉え方のもとに开いていく、それが本书の目指した地点である。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 野矢 茂樹 / 2017)
関连情报
1 漠然とした問題
2 素朴実在論の困難
3 二元論の困難
4 一元論の困難
5 他人の心という难问
II 理論
6 知覚の眺望構造
7 感覚の眺望構造
8 知覚的眺望と感覚的眺望
9 相貌と物語
III 解答
10 素朴実在論への還帰
11 脳神話との訣別
12 他我問題への解答